アグラオニケ

アグラオニケ[4][5]古代ギリシア語: ἈγλαονίκηAglaoníkē)あるいはテッサリアのアガニケ[2]は、古代ギリシアテッサリア出身の女性で、天文学者として認識される歴史上最初の女性でもある[6][2]月食の発生を予報し、月を天上から引き下ろした魔女とも言われていた[6][3]

アグラオニケ
生誕 テッサリア?[1]
別名 テッサリアのアガニケ[2]
著名な実績 皆既月食の予報[3]

記録

アグラオニケに関する伝記的な資料はほとんど存在しないが、2つの著作の合わせて3ヶ所に、短い記述があることは確認されている。著作の一つは、古代ローマの著述家プルタルコスの随想集『倫理論集(モラリア)』、もう一つは、ヘレニズムの詩人ロドスのアポローニオス叙事詩アルゴナウティカ』の古註である[6][3]

『モラリア』の中では、『結婚訓』と『神託の衰微について』の2篇にアグラオニケについての記述がある。

アグラオニケが経験から月食の起こる満月の周期を知って月が大地の影に占められる時を予測し、彼女が月を引き降ろしたと女たちを欺き信じさせた
プルタルコス、『結婚訓』48 145c(瀬口昌久訳)[4]
ヘゲトルの娘で天文学に長けたアグラオニケは、月蝕のさいにいつも呪文をかけて月を引きずり下ろすふりをしていた
プルタルコス、『神託の衰微について』13 417a(丸橋裕訳)[5]

また、『アルゴナウティカ』の古註には、以下のような記述がある。

ヘゲモンの娘アグラオニケは、天文学に通じ、月食の何たるかと、それがいつ起きるかを知っており、女神を引き下ろし、そしてただちに家人の一人を失う不幸に見舞われた、といわれたものである。
『アルゴナウティカ』古註 4巻 59-61[7]

『結婚訓』には「テッサリアのヘゲトルの娘」とあり、『アルゴナウティカ』の古註でも「テッサリアの魔女」の記述に続けてアグラオニケが登場することから、アグラオニケはテッサリアの出身とされている[6][1][4][7]。そしてこれらの記述から、アグラオニケは天文学の知識に通じ、朔望の周期を知り、月食が起きる日時を予測することができたと考えられ、しばしば歴史上最初の女性天文学者として引き合いに出される[6][注 1]。天文学の知識に基づいて、月食の予報をしていたのだとすると、おそらくその計算はアグラオニケの独創ではないと考えられ、アグラオニケは、月食の予報を可能としていたバビロニアの天文学者の知識がギリシアに伝わったセレウコス朝期以降の人物であり、その評判を記述したプルタルコスよりは前の時代の人物であることになる[3]

ただし、月食の予報と、月を引き下ろす魔術をそのまま結び付けてよいかどうかには、疑問もある。通常の皆既月食では、満月の明るさを大幅に減じ変色するが、月は依然として肉眼で容易にみえるからで、月を引き下ろしたと信じさせるには程遠い状況と考えられる。ただ、まれに目にはみえなくなる程暗くなる皆既月食も起こることがあり、モナシュ大学西洋古典学者ビックネルはこの点に着目し、アグラオニケが予報した月食も同様のものだったと考え、プルタルコスやキケロの文献から月が消える程の月食の見当を付けることで、アグラオニケの年代を紀元前2世紀から紀元前1世紀のどこかがもっともらしいとしている[3][注 2]

テッサリアの魔女

アグラオニケは、月を引き下ろしたと主張したことから、テッサリアの魔女として知られる女性の一人であったとみられる。アグラオニケに触れてはいないが、テッサリアの魔女に月を引き下ろす力があるという噂は、いくつもの文献に記述されている[3][6]

アリストパネスの喜劇『』には、

テッサリアの魔女をやとってさ、夜のうちに、お月さんをはずして、取ってしまうことにしたら、どうだろうね。
アリストパネス、『雲』750-755(田中美知太郎訳)[10]

という記述があり、アリストパネスの時代には既に噂が広まっていたものと考えられる。

以後、プラトンの『ゴルギアス[注 3]ホラティウスの『エポディ[注 4]ウェルギリウスの『牧歌[注 5]なども、(テッサリアの)魔女が月を天上から引き下ろす、と言及している[6][2]

波及

金星探査機マゼランによる金星の「クレーター・ファーム」のレーダー画像。右上のクレーターがアグラオニケ・クレーター。出典: NASA / JPL[14]

自らの能力を誇るアグラオニケにちなんで、ギリシア語には「月がアグラオニケに従うように」という俚諺が伝わっている[2]

NASA金星探査機マゼランによって、金星に多数の衝突クレーターが確認され、国際天文学連合 (IAU) にそれらの命名が求められた[注 6]。その中で、1991年のブエノスアイレス総会にIAUから提案された名前の一つが「アグラオニケ」であり、そのまま公式な名称として採用された[16][17]

ジャン・コクトーが、ギリシア神話オルペウスに取材して著した戯曲『オルフェ』、及び後に自身が監督した映画『オルフェ』には、名前をアグラオニケにちなんだ女性アグラオニスが登場する。アグラオニスは、戯曲『オルフェ』では月を崇拝する信仰の指導者で、主人公オルフェの妻ユリディス冥界送りにする役回りであったが、一転して映画『オルフェ』では、ユリディスの友人として登場した[18][19][20][21]

ジュディ・シカゴ『ディナー・パーティー』

アメリカの美術家ジュディ・シカゴインスタレーション作品『ディナー・パーティー』では、中央部分のタイルが敷き詰められた三角形の床に、999人の勇敢な女性の名前が描かれており、その一人としてアグラオニケの名前も含まれている[22][23][24]

脚注

注釈

  1. 天文学者」として言及される最古の女性ではあるが、天文学に通じた女性はもっと古い時代から居たと考えられる。例えばサルゴンの娘エンヘドゥアンナは、神官文学者という位置付けだが、バビロニアの高位の神官は、現在の天文学や数学の源流に近い存在であり、立場上天体の観測やの作成に関わっていたものと考えられる[8]
  2. 皆既月食が非常に暗くなる原因としては、大規模な火山噴火による大気中の塵粒子の増加が知られ、例えば、1913年3月22日の月食と1913年9月15日の月食カトマイ山の1912年の噴火、1963年12月30日の月食は同年のアグン山の噴火、1982年12月30日の月食は同年のエルチチョンの噴火の影響があったものと推測されている。しかし、グリーンランドで採取された氷床コアの分析から、アグラオニケの時代に世界規模の噴火が起きた証拠はみつかっていない[3][9]
  3. …あの魔法によって月を引きおろす女たち、つまりテッタリアの魔女たちが、その代償としてこうむったと伝えられるような災難に… —プラトン、『ゴルギアス』513A(加来彰俊訳)[11]
  4. …星や月などを/かのテッサリアの呪文により/天からもたらす… —ホラティウス、『エポディ』5.45(鈴木一郎訳)[12]
  5. まじないは、天から月を引き下ろすことさえできる。 —ウェルギリウス、『牧歌』8.69(小川正廣訳)[13]
  6. 金星は、愛と美の女神ウェヌス(アプロディーテー)に象徴される惑星であり、それゆえ金星の地名の命名については、女性の名前という制約が課されている[15]

出典

  1. Lightman, Marjorie; Lightman, Benjamin (2008). A to Z of Ancient Greek and Roman Women. New York, NY: Infobase Publishing. p. 9. ISBN 9781438107943. https://books.google.co.jp/books?id=2esYJJUETiYC
  2. Saridakis, Voula (2014), “Aganice of Thessaly”, Biographical Encyclopedia of Astronomers, New York, NY: Springer, pp. 29-30, Bibcode: 2014bea..book...29S, doi:10.1007/978-1-4419-9917-7_9215, ISBN 978-1-4419-9917-7
  3. Bicknell, Peter (1983-06), “The witch Aglaonice and dark lunar eclipses in the second and first centuries BC”, Journal of the British Astronomical Association 93 (4): 160-163, Bibcode: 1983JBAA...93..160B
  4. プルタルコス 著、瀬口昌久 訳『モラリア 2』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2001年12月、192-193頁。ISBN 9784876981328。
  5. プルタルコス 著、丸橋裕 訳『モラリア 5』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2009年3月、261頁。ISBN 9784876981823。
  6. Ogilvie, Marilyn Bailey (1986). Women in Science. Cambridge, MA: MIT Press. p. 25-26. ISBN 0-262-15031-X. https://archive.org/details/womeninscience00mari
  7. Hill, D. E. (1973), “The Thessalian Trick”, Rheinisches Museum für Philologie 116: 221-238, https://www.jstor.org/stable/41244743
  8. Howard, Sethanne (1998-06), “4,000 Years of Women in Science, Engineering and Other Altogether Creative Stuff”, International Amateur-Professional Photoelectric Photometry Communication 72: 1-25, Bibcode: 1998IAPPP..72....1H
  9. 皆既月食中の月の色について”. 2007年8月28日「皆既月食どんな色?」キャンペーン. 国立天文台. 2020年5月26日閲覧。
  10. 高津春繁 編『アリストパネス筑摩書房世界古典文学全集〉、1964年、108頁https://archive.org/stream/githejomur_hu4ht/
  11. プラトン 著、加来彰俊 訳『ゴルギアス岩波書店、1967年6月16日。ISBN 9784003360125。
  12. 鈴木一郎 訳『ホラティウス全集』玉川大学出版部、2001年、242頁。ISBN 9784472119019。
  13. 小川正廣 訳『牧歌農耕詩』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2004年5月、58-59頁。ISBN 9784876981519。
  14. Williams, David R. (2019年2月1日). Magellan Fact Sheet”. Lunar and Planetary Science. NASA Space Science Data Coordinated Archive. 2020年5月10日閲覧。
  15. Chapter 8 What's in a Name?”. The Magellan Venus Explorer's Guide. NASA / JPL. 2020年5月22日閲覧。
  16. Russell, Joel F.; Schaber, Gerald G. (1993-03), “Named Venusian Craters”, Abstracts of the 24th Lunar and Planetary Science Conference: 1219-1220, Bibcode: 1993LPI....24.1219R
  17. Aglaonice on Venus”. Gazetteer of Planetary Nomenclature. USGS Astrogeology Science Center (2006年10月1日). 2020年5月21日閲覧。
  18. Strauss, Walter A. (1997), “Jean Cocteau, the mask of Orpheus and Narcissus”, Religiologiques 15, https://www.religiologiques.uqam.ca/no15/strauss.html
  19. Collard, Christophe; Michiels, Laura (2014), “Complicity Across the Atlantic: A Literary Liaison between Two Androgynous Artists”, Rivista di Studi Americani 25: 59-84
  20. Palumbo, Valeria (2018), “Capitolo 1 Le madri delle stelle” (イタリア語), L’epopea delle lunatiche: Storie di astronome ribelli, Milano (Italy): Ulrico Hoepli Editore, ISBN 978-88-203-8607-8
  21. Cocteau, Jean (1964). The Infernal Machine: & Other Plays. New York: New Directions Publishing. pp. 106-107. ISBN 9780811221634. https://books.google.co.jp/books?id=jgyw3bncfIoC
  22. Aglaonice”. Elizabeth A. Sackler Center for Feminist Art. Brooklyn Museum. 2020年5月10日閲覧。
  23. ゲイル・レヴィン 著、板井由紀 訳コメント: 仲間裕子「アメリカにおける女性アーティスト、画商、美術館関係者 ─フェミニスト? それとも仕事人?─」『アート・リサーチ(立命館大学アート・リサーチセンター紀要)』第4巻、5-22頁、2004年3月。
  24. Weiss, Sasha (2018年4月10日). フェミニズムアートの闘士にして 時代の預言者、ジュディ・シカゴ <前編>”. The New York Times Style Magazine: Japan. 2020年5月22日閲覧。

参考文献

関連文献

  • Vittachi, Nury; Cheung, Step (2017). Scientific Pioneers — Five Incredible Tales of People Who Helped Develop the Scientific Method. The Young Scientists Series. 5. World Scientific. doi:10.1142/9789813221291_0005

関連項目

外部リンク

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