アジウソン・ディアス・バティスタ

アジウソン・ディアス・バティスタ(Adilson Dias Batista, 1968年3月16日 - )は、ブラジル・パラナ州クリチバ出身のサッカー選手、指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。ブラジル代表にも選出された経歴を持つ。

アジウソン
名前
本名 アジウソン・ディアス・バティスタ
Adilson Dias Batista
ラテン文字 ADILSON
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1968-03-16) 1968年3月16日(56歳)
出身地 クリチバ
身長 183cm
体重 78kg
選手情報
ポジション DF
クラブ1
年 クラブ 出場 (得点)
1988 ブラジルの旗 アトレチコ-PR 20 (1)
1989-1993 ブラジルの旗 クルゼイロ 48 (4)
1993 ブラジルの旗 インテルナシオナル 11 (2)
1994 ブラジルの旗 アトレチコ-MG 19 (2)
1995-1996 ブラジルの旗 グレミオ 30 (2)
1997-1999 日本の旗 ジュビロ磐田 52 (10)
2000 ブラジルの旗 コリンチャンス 5 (0)
代表歴
1990-1991 ブラジルの旗 ブラジル 4 (0)
監督歴
2001 ブラジルの旗 モジミリン
2002 ブラジルの旗 アメリカ-RN
2002-2003 ブラジルの旗 アヴァイ
2003 ブラジルの旗 パラナ・クルーベ
2003-2004 ブラジルの旗 グレミオ
2004 ブラジルの旗 パイサンドゥ
2005 ブラジルの旗 スポルチ・レシフェ
2005-2006 ブラジルの旗 フィゲイレンセ
2006-2007 日本の旗 ジュビロ磐田
2008-2010 ブラジルの旗 クルゼイロ
2010 ブラジルの旗 コリンチャンス
2010-2011 ブラジルの旗 サントス
2011 ブラジルの旗 アトレチコ-PR
2011 ブラジルの旗 サンパウロ
2012 ブラジルの旗 アトレチコ-GO
2013 ブラジルの旗 フィゲイレンセ
2013-2014 ブラジルの旗 ヴァスコ・ダ・ガマ
2015 ブラジルの旗 ジョインヴィレ
2018 ブラジルの旗 アメリカ・ミネイロ
2019 ブラジルの旗 セアラー
2019-2020 ブラジルの旗 クルゼイロ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

選手経歴

1990年代のグレミオなどで、守備の中心として活躍したDF、ヘディングの強さは守備だけでなく攻撃においても大きな武器となっていた[1]。グレミオではパラグアイ代表のカタリーノ・リバローラと強靭なセンターバックを形成[1]、キャプテンとして、リーダーシップを取り、1995年チームをリベルタドーレスカップ優勝に導いた[1]。同年のインターコンチネンタルカップでは延長PK戦でアヤックスに敗れた。1996年に神戸で開催されたレコパ・スダメリカーナのCAインデペンディエンテ戦では1得点を決めて優勝を果たした[2]。

ファルカンが監督を務めていた1990年にはブラジル代表入りしたが[3]、以降代表には縁がなく(アジウソン本人によれば、サンパウロやリオデジャネイロなどの都会のクラブに所属していない選手にはありがちなことだという)、代表に選ばれないことを惜しむファンからは南米代表のキャプテン」とも呼ばれた。

アトレチコ・ミネイロ時代にもJリーグ入りの話を受けたが[1]、1997年にルイス・フェリペ・スコラーリがジュビロ磐田の監督に就任するにあたり、監督を務めていたグレミオから連れてくる形でジュビロに入団した。ここでも守備の要として活躍した。1997年4月12日のサンフレッチェ広島戦でデビューし初ゴールも決めた[4]。同年のチャンピオンシップ、鹿島アントラーズ戦では1stレグで3-2と勝利[5]、2ndレグでもールキーパーの大神友明と共に鹿島アントラーズの前に立ちはだかり、1-0で勝利し[6]、優勝に貢献した[7]。しかし1998年秋に膝を痛め、翌1999年はその影響でファーストステージを欠場するなど[8]、試合出場が減り[9]、同年退団した。Jリーグでは1997年は22試合5ゴール、1998年は23試合5ゴールとDFながら高い得点率で、通算52試合10ゴールの成績を残した[4]。帰国後はコリンチャンスでプレーし、第1回世界クラブ選手権に優勝。しかし磐田時代に痛めた膝は完治せず、程なくして現役を引退。フェリペの元で指導者の道に進んだ。

指導者経歴

その後はモジミリンをブラジル全国選手権3部から2部に昇格させるなど実績を積み、2003年9月から2004年6月まではグレミオの監督も務めた。規律を重視するスタイルで選手との対立を起こしてしまうことも度々あったが、経験を積むことで払拭。フィゲイレンセ監督時代には問題児エジムンドをうまくコントロールし、彼ら主力が抜けた後は若手と移籍選手でうまく穴埋めし、ブラジル全国選手権でもなかなかの健闘を見せていた。特に守備陣を構築する手腕は評価されている。そうした手腕に古巣の磐田が目をつけ、2006年6月22日に磐田監督に就任。当時Jリーグ最年少の監督であり、磐田で最年長の選手でかつてのチームメイトでもあった中山雅史よりも年下であった(学年は同じである)。

新旧交代を求められた彼は、犬塚友輔、上田康太らの若手選手を積極的に起用し、11位に低迷していたチームを5位にまで躍進。一定の評価を得た。一方、戦術面での頑固さはベテラン選手との軋轢を生み、シーズン中に名波浩がC大阪へとレンタル移籍。シーズン終了後には名波が東京Vへ再びレンタル移籍、服部年宏も同じく東京Vへ移籍、そして福西崇史もFC東京へ移籍と、クラブを支えてきたベテラン選手たちが次々と磐田を去ることになった。

2007年も引き続き磐田を指揮。しかし守備が安定せずに大量失点での敗戦が目立ち、また勝利しても内容に乏しい試合が多く、徐々にサポーターや選手の信頼を失った。守備を安定させるために3人の外国籍選手をすべてボランチに置くなどの荒療治も行ったが、逆に意思疎通が上手くいかずさらにチームは迷走した。9月1日の清水戦にロスタイムの失点で敗戦の翌日、まだ9位ではあったが辞任した。帰国後の2008年より、クルゼイロ監督としてブラジルサッカーに復帰。チームを全国選手権上位に導くなど、ブラジル1部リーグで監督としてのキャリアを積んでいたもののクルゼイロ退団後は、各クラブともに短期間での指揮で結果を残せていない。

エピソード

  • 鈴木秀人と田中誠は、ずるがしこいプレーの使い方や空中戦でのポジショニングについては彼から学ぶ事が多かった、と語っている。
  • 影響を受けた監督について、フェリペとヴェルディ川崎や名古屋で指揮を執り、Jリーグでもその手腕が知られているネルシーニョを挙げている。

個人成績

クラブでの成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1988アトレチコ-PR201
1989クルゼイロ81
1990151
1991162
199290
1993
1993インテルナシオナル112
1994アトレチコ-MG192
1995グレミオ50
1996252
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1997磐田4J22511300338
19982354100276
1999J170200090
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
2000コリンチャンス50
通算ブラジル
日本J1 5210174006914
総通算

その他の公式戦

代表での成績

出典[10]
ブラジル代表国際Aマッチ
年出場得点
199030
199110
合計40

タイトル

選手

アトレチコ・パラナエンセ
クルゼイロ
グレミオ
ジュビロ磐田
コリンチャンス

指導者

アメリカ-RN
フィゲイレンセ
クルゼイロ
  • カンピオナート・ミネイロ: 2008, 2009

脚注

  1. TOYOTA CUP 1995 16回大会 パンフレット p.41
  2. “Recopa 1995”. RSSSF. 2023年4月17日閲覧。
  3. TOYOTA CUP 1995 16回大会 パンフレット p.16
  4. “アジウソン”. data.j-league. https://data.j-league.or.jp/SFIX04/?player_id=2944 2020年4月17日閲覧。
  5. “’97サントリーチャンピオンシップ 第1節第1日”. data.j-league. https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=3139 2020年4月17日閲覧。
  6. “’97サントリーチャンピオンシップ 第2節第1日”. data.j-league. https://data.j-league.or.jp/SFMS02/?match_card_id=3140 2020年4月17日閲覧。
  7. 元磐田DF&監督のアジウソン氏、心臓発作で搬送 数日以内に手術へ…古巣も回復を祈る-フットボールゾーン
  8. 週刊サッカーマガジン 平成11年6/16 p.9
  9. 1997年最強! ジュビロ磐田、伝説の英雄5人。ドゥンガ、中山雅史、大神友明…黄金期の土台を築いた男たち-FC
  10. “Batista, Adilson”. National-Football-Teams.com. 2017年7月2日閲覧。

関連項目

外部リンク

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