アルギン島

アルギン島またはアルガン島 (ポルトガル語: Arguim) は、モーリタニア西岸のアルギン湾に位置する島。広さはおよそ6x2キロメートルで、小村アガディールを除けば地形は荒廃しており、周囲を広大で危険な暗礁に囲まれている[1]。現在はバン・ダルガン国立公園の一部を形成している[2]

バン・ダルガン国立公園の登録範囲図。湾の北東部にあるのがアルギン島およびアガディール(AGADIR)。
ポルトガルのアルギン要塞(1721年)
アルギン要塞の構造 (1721年)

歴史

アルギン島は植民地として宗主国が度々変わった。1443年、ポルトガル人の探検家ヌーノ・トリスタンが、ヨーロッパ人で初めてアルギン島を訪れた[3]。1445年、エンリケ航海王子によりこの島に貿易拠点が置かれ、アラビアガム奴隷がポルトガルへ向け輸出された。1455年までには、毎年800人の奴隷がアルガン島からポルトガルへ送られるようになった[4]

1633年、オランダ・ポルトガル戦争中にオランダがアルギン島を制圧した。1665年に一時期イングランドに奪われるもののすぐに回復した。1678年9月、フランスがアルギン島を奪取したが、その後1685年までこれを放棄していた[5]。土地が不毛で良い投錨地もないアルギン島には、ヨーロッパ人が長期的な植民地を築くことが困難だった[1]

1685年、フリゲート艦ローター・レーヴェのリアース船長がアルギン島のポルトガル領時代の古い要塞を占拠した。彼は地元の王と協定を結び、彼をブランデンブルク゠プロイセンの保護下に置くことに成功した。この条約は1687年に批准され、1698年に更新された[6]。1721年、フランスがアルギン島の要塞を強襲して、ブランデンブルクからこの島を奪い返した。翌年オランダが要塞を奪取したが、1724年にはまたフランスの支配下に戻った。4年間のフランス支配の後、地元勢力がアルギン島を支配するようになった[5]。その後アルギン島はフランス領モーリタニア植民地の一部となり、1960年にモーリタニアが独立するとそれに従った[2]

1816年7月には、セネガルへ向かっていたフランスのフリゲート艦メデューズがアルガンで座礁し、350人が死亡する事故が起きている[1]。この事件は同時代の画家テオドール・ジェリコーの大作絵画『メデューズ号の筏』で広く知られている。

関連項目

脚注

  1. Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Arguin" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 2 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 482.
  2. Le Parc National du Banc d'Arguin”. 2017年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月10日閲覧。
  3. Huish. Travels of Richard and John Lander into the interior of Africa”. 2020年5月14日閲覧。
  4. Slave Routes - Europe Portugal Archived November 10, 2013, at the Wayback Machine.
  5. Cahoon. Mauritania”. www.worldstatesmen.org. 2020年5月14日閲覧。
  6. van der Heyden, Ulrich (1993). Rote Adler an Afrikas Küste: Die brandenburgisch-preußische Kolonie Großfriedrichsburg in Westafrika (second ed.). Berlin: Selignow. ISBN 3-933889-04-9


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