アルベルティーナ・フリーデリケ・フォン・バーデン=ドゥルラハ
アルベルティーナ・フリーデリケ・フォン・バーデン=ドゥルラハ(ドイツ語:Albertina Friederike von Baden-Durlach, 1682年7月3日 - 1755年12月22日)は、バーデン=ドゥルラハ辺境伯フリードリヒ7世マグヌスとアウグスタ・マリー・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプの娘。クリスティアン・アウグスト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプの妃となった。
| アルベルティーナ・フリーデリケ・フォン・バーデン=ドゥルラハ Albertina Friederike von Baden-Durlach | |
|---|---|
![]() アルベルティーナ・フリーデリケ(バルタザール・デンナー画) | |
| 出生 |
1682年7月3日 バーデン=ドゥルラハ辺境伯領、ドゥルラハ、カールスブルク城 |
| 死去 |
1755年12月22日(73歳没) |
| 配偶者 | オイティン公クリスティアン・アウグスト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ |
| 子女 | 本文参照 |
| 家名 | ツェーリンゲン家 |
| 父親 | バーデン=ドゥルラハ辺境伯フリードリヒ7世マグヌス |
| 母親 | アウグスタ・マリー・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ |
生涯
1704年9月2日にオイティン公クリスティアン・アウグスト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプと結婚した。
1726年に夫が死去し、長男カール・アウグストが領地を継承した。その1年後にカール・アウグストが嗣子なく死去し、末男アドルフ・フリードリヒが領地を継承した。アドルフ・フリードリヒは未成年であったが、「母親の支援と指導のもと」統治することを許可された[1]。また、アルベルティーナ・フリーデリケはアドルフ・フリードリヒに収入を確保するために、ステンドルフ、メンヒ=ネヴァースドルフおよびレンツァーンの領地をアドルフ・フリードリヒに与えた[1]。
アルベルティーナ・フリーデリケは、父方の祖母であるクリスティーネ・マグダレーナ・フォン・プファルツ=ツヴァイブリュッケン=クレーブルク(スウェーデン王カール10世の妹)を通してスウェーデン王家の血を引いており、そのため1743年に息子アドルフ・フリードリヒがスウェーデン王位継承者に選出された。
子女
- ヘートヴィヒ・ソフィー(1705年10月9日 - 1764年10月4日) - 1750年からヘルフォルトの女子修道院長
- カール・アウグスト(1706年 - 1727年) - リューベック司教
- フリーデリケ・アマーリア(1708年1月12日 - 1782年1月31日) - クヴェードリンブルクの修道女
- アンネ(1709年1月3日 - 1758年2月2日) - ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ2世の息子ヴィルヘルムと結婚
- アドルフ・フリードリヒ(1710年 - 1770年) - スウェーデン王
- フリードリヒ・アウグスト(1711年 - 1785年) - オルデンブルク公
- ヨハンナ・エリーザベト(1712年 - 1760年) - アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグストと結婚、ロシア女帝エカチェリーナ2世の母親
- フリーデリケ・ゾフィー(1713年)
- ヴィルヘルム・クリスティアン(1716年9月20日 - 1719年6月26日)
- フリードリヒ・コンラート(1718年3月12日 - 1319年)
- ゲオルク・ルートヴィヒ(1719年 - 1763年)
脚注
- L. Stavenow. “Adolf Fredrik”. Svenskt biografiskt lexikon. 2014年12月25日閲覧。
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