エデン・ミハロヴィチ

エデン・ペーテル・ヨージェフ・ド・ミハロヴィチ(Ödön Péter József de Mihalovich [[ˈødøn ˈmihɒlovitʃ]], 1842年9月13日 - 1929年4月22日)は、ハンガリーの作曲家・音楽教育者。独語名エドムント・フォン・ミハロヴィチ(Edmund von Mihalovich)でも知られる。

エデン・ミハロヴィチ
Ödön Mihalovich
基本情報
生誕 (1842-09-13) 1842年9月13日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国、フェリチャーンチ(現クロアチア領オシエク=バラニャ郡フェリチャーンツィ(Fericsánci, Feričanci))
死没 (1929-04-22) 1929年4月22日(86歳没)
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国、ブダペスト[1]
職業 作曲家・音楽教育者

略歴

クロアチアの由緒ある貴族を父親にスラヴォニア地方に生まれる。最初にペシュトでミハーイ・モショニーに師事した後、1865年にライプツィヒに移ってモーリッツ・ハウプトマンに師事し、1866年にミュンヘンでペーター・コルネリウスのもとで学業を終えた。その後ペシュトに帰郷。ミュンヘンでリヒャルト・ワーグナーと知り合い、1872年にペシュト・ワーグナー協会の会長に就任している。1886年から1919年までフランツ・リストの後任として、ブダペスト王立音楽院の院長に就任した。

4つの交響曲や多数の交響詩、いくつかの演奏会用序曲、ピアノ協奏曲に加えて、6つのオペラや合唱曲、歌曲を手懸けた。《交響曲ニ長調》は、1883年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社によって出版されている[2]。ミハロヴィチは、ワーグナーの作風に徹底的に影響されているが、ハンガリーのナショナリズムの支持者であり、コダーイ・ゾルターンやバルトーク・ベーラのような後進を激励した。

主要作品一覧

  • 歌劇《鍛冶屋ヴィーラント(Wieland der Schmied )》(1876年 - 78年)
  • 歌劇《ハクバルトとジクネ(Hagbart und Signe )》(1882年、ドレスデン)
  • 歌劇《トルディの恋(Toldi Szerelme )》(1893年)
  • 交響曲 第1番 (1879年)
  • 交響曲 第4番 (1902年)


参考文献

  • Don Randel, Harvard Biographical Dictionary of Music. Harvard, 1996, p. 588.

外部リンク

註記

  1. “Musiklexikon Online: Biography Entry identifying Ödön Mihalovich with E. von Mihalovich”. 2008年6月10日閲覧。
  2. Sonneck, Oscar George Theodore: Orchestral Music (Class M1000-1268) Catalogue: Scores in the Library of Congress - Google ブックス, page 582. “OCLC link to Worldcat Information for Ödön (Edmund) Péter József von Mihalovich's D minor symphony”. Breitkopf & Härtel (1883年). 2008年6月10日閲覧。
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