サーマッラーの大モスク
サーマッラーの大モスク(アラビア語: جَامِع سَامَرَّاء ٱلْكَبِيْر、ローマ字:Jāmiʿ Sāmarrāʾ Al-Kabīr)は、イラクのサーマッラーにあるモスク。アッバース朝の10代目カリフであるムタワッキルによって建設された。1278年にフレグ率いるモンゴル軍に破壊され外壁とミナレットを残すのみとなったが、今日に残る世界中のモスクで最も大きな面積を持つ。また、このモスクは2007年に国際連合教育科学文化機関によって世界遺産に登録された「都市遺跡サーマッラー」に含まれている。ムタワッキルのモスクとも呼ばれる。
| サーマッラーの大モスク | |
|---|---|
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アラビア語: جَامِع سَامَرَّاء ٱلْكَبِيْر مَسْجِد سَامَرَّاء ٱلْكَبِيْر ٱلْمَسْجِد ٱلْجَامِع فِي سَامَرَّاء | |
![]() モスクの外観 | |
![]() イラクでの位置 | |
| 基本情報 | |
| 所在地 |
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| 座標 | 北緯34度12分21秒 東経43度52分47秒 |
| 宗教 | イスラム教 |
| 建設 | |
| 形式 | イスラム建築 |
| 様式 | アッバース様式 |
| 創設者 | ムタワッキル |
| 創設 | 848年 |
| 完成 | 851年 |
| 破壊 | 1278年 |
| 建築物 | |
| ミナレット数 | 1 |
| ミナレット高 | 52メートル (171 ft) |
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|---|---|---|---|
![]() モスクのシンボルであるマルウィヤ・ミナレット | |||
| 英名 | Samarra Archaeological City | ||
| 仏名 | Ville archéologique de Samarra | ||
| 面積 | 中核地域15058ha、緩衝地域31414ha | ||
| 登録区分 | 文化遺産 | ||
| 登録基準 | (2), (3), (4) | ||
| 登録年 | 2007年 | ||
| 備考 | 危機遺産登録(2007年 - ) | ||
| 公式サイト | 世界遺産センター(英語) | ||
| 使用方法・表示 | |||
歴史
サーマッラーへの遷都
アッバース朝の第8代カリフであるムウタスィムは、自らの親衛隊として即位前から3,000から4,000騎ほどのトルコ人マムルークを所有しており、カリフに即位するとこれを7,000騎にまで増やした[1][注釈 1]。しかし、ムウタスィムのトルコ人マムルークたちは都であるバグダードにおいて乱暴や狼藉を働き、バグダード市民からは嫌悪されていた[2]。また、マムルークの存在はホラーサーン軍からも反発を招いた[3]。
即位の3年後である836年、ムウタスィムはバグダード市民やホラーサーン軍からマムルークを守るべく、彼らを引き連れてバグダードの北方140から150キロメートルの所にあるサーマッラーに遷都した[3][4]。
モスクの建設
ムウタスィムの2代後、第10代カリフであるムタワッキルの時代にサーマッラーでは大規模な都市建設が行われた。カリフの宮殿や貴族の邸宅などが建設され、この中で848年または849年から852年にかけてサーマッラーの大モスクが建設された[5][6]。
放棄
サーマッラーは東西貿易の幹線道路から外れていたことなどを理由としてバグダードほどの繁栄は見せなかった[3]。892年、カリフであるムータミドはサーマッラーからバグダードに都を戻した。これによってサーマッラーの繁栄は失われ、やがて大部分が廃墟となった[7]。
建築
モスク本体

モスクの本体の大きさは縦が240メートル、横が160メートルあり[7]、総面積はおよそ38,000平方キロメートルである[13]。これは世界中のモスクのなかで最も大きい面積である。また、中庭は縦160メートル、横100メートルである[7]。ただし、モスクの内部は完全に崩れ落ちており、現在モスクに残っているのは本体の外壁のみである[14]。
外壁は厚さが2.65メートルで、四隅には塔がある。東西に8個、南北に12個、搭状になっている半円形の張り出し部分があり、16個の入り口がある[15]。
発掘調査によると、モスクの内部には東西両側に4列、北側に3列、ミフラーブがある主礼拝空間である南側には9列の列柱があった。モスクの建設資材は主に焼き煉瓦である。モスクの内部は豪華なモザイクで覆われていたと考えられている[16]。
外壁
本体の外壁のさらに外側には縦443メートル、横376メートルにわたるもう1つの外壁が存在した。また、ジャーダと呼ばれる、この外壁と本体の外壁の間の空間にはさらにもう1つの壁の跡があり、これは縦350メートル、横266メートルにわたる。このように何枚もの外壁があった理由は分かっていない[17]。
影響
カイロにあるイブン・トゥールーン・モスクの建築はサーマッラーの大モスクの影響を受けた[20]。イブン・トゥールーン・モスクの建築を命じたイブン・トゥールーンの父はトルコ人奴隷かつアッバース朝カリフの近衛長官であり、イブン・トゥールーンはサーマッラーで生活していた[21]。879年に完成したイブン・トゥールーン・モスクは、サーマッラーの大モスクとほぼ同じ素材、様式で建設された。また、明り取りの窓やアーチなどの装飾もサーマッラーの大モスクから影響を受けている[22]。
ミナレットもまたマルウィーヤから影響を受けた[18]。しかし、マルウィーヤが円柱であるのに対し、イブン・トゥールーン・モスクのミナレットは角柱である[23]。
世界遺産登録
サーマッラーの大モスクはマルウィヤ・ミナレットと共に2007年に世界遺産に登録されたが、当時のイラクの政情下では維持や保存活動が困難であるとされ、世界遺産登録と同時に危機にさらされている世界遺産に登録された[24]。
ギャラリー
モスクの遠景
モスクの外壁
マルウィヤ・ミナレットに登る観光客
北側からモスクを望む
脚注
注釈
- ムウタスィムに限らず当時のカリフは忠誠心の厚い軍隊を編成する必要があり、優れた騎馬戦士であり忠誠心の厚い奴隷のトルコ人はうってつけの人材だった[2]。
出典
- 佐藤 2008, p. 174, 175.
- 佐藤 2008, p. 175.
- 佐藤 2008, p. 176.
- 羽田 2016, p. 80.
- Northedge 1990, p. 43.
- 羽田 2016, p. 80, 81.
- 羽田 2016, p. 81.
- al-Janabi 1983, p. 306.
- al-Janabi 1983, p. 306, 308.
- Alsadik 2020, p. 8, 9.
- Alsadik 2020, p. 8.
- Alsadik 2020, p. 9.
- Alsadik 2020, p. 7.
- 羽田 2016, p. 81, 82.
- 羽田 2016, p. 81, 83.
- 羽田 2016, p. 82.
- 羽田 2016, p. 83.
- Kamal 2021, p. 204.
- 羽田 2016, p. 84.
- Behrens-Abouseif 1992, p. 52.
- 羽田 2016, p. 87.
- 羽田 2016, p. 93.
- 羽田 2016, p. 91, 93.
- “都市遺跡サーマッラー”. whc.unesco.org. 世界遺産センター. 2020年11月14日閲覧。
参考文献
日本語文献
英語文献
- al-Janabi, Tariq (Feb 1983). “Islamic Archaeology in Iraq: Recent Excavations at Samarra”. World Archaeology (Taylor & Francis) 14 (3): 305-327. JSTOR 124344.
- Alsadik, Bashar. “Crowdsource Drone Imagery – A Powerful Source for the 3D Documentation of Cultural Heritage at Risk”. International Journal of Architectural Heritage (Tylar & Francis). doi:10.1080/15583058.2020.1853851.
- Behrens-Abouseif, Doris. Islamic architecture in Cairo : an introduction. Brill. ISBN 9004096264
- Kamal, Mohammad Arif (June 2021). “MINARETS AS A VITAL ELEMENT OF INDO-ISLAMIC ARCHITECTURE: EVOLUTION AND MORPHOLOGY”. Journal of Islamic Architecture 6 (3): 203-209. doi:10.18860/jia.v6i3.7711.
- Northedge, Alastair (1990). “The Racecourses at Sāmarrā'”. Bulletin of the School of Oriental and African Studies, University of London (Cambridge University Press) 53 (1): 31-56. JSTOR 618966.
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