ジェームズ・ステュアート=ウォートリー (初代ウォーンクリフ男爵)

初代ウォーンクリフ男爵ジェームズ・アーチボルド・ステュアート=ウォートリー=マッケンジー(英: James Archibald Stuart-Wortley-Mackenzie, 1st Baron Wharncliffe,PC、1776年10月6日 - 1845年12月19日)は、イギリスの軍人、政治家。ピール内閣で王璽尚書や枢密院議長を歴任した。

初代ウォーンクリフ男爵
ジェームズ・
ステュアート=ウォートリー

PC
王璽尚書
任期
1834年12月15日 – 1835年4月8日
君主ウィリアム4世
首相サー・ロバート・ピール
前任者マルグレイヴ伯爵
後任者ダンキャノン子爵
枢密院議長
任期
1841年9月3日 – 1845年12月19日
君主ヴィクトリア
首相サー・ロバート・ピール
前任者第3代ランズダウン侯爵
後任者第5代バクルー公爵
個人情報
生誕 (1776-10-06) 1776年10月6日
死没1845年12月19日(1845-12-19)(69歳)
国籍イギリスの旗 イギリス
政党トーリー
配偶者エリザベス・クライトン (1779–1856)

生涯

陸軍大佐ジェームズ・ステュアート(Col.James Stuart、第3代ビュート伯爵の息子)とマーガレット・カニンガム(Margaret Cunynghame、サー・デイビッド・カニンガムの娘)との長男として生まれた[1][2]。父方の祖母にビュート伯爵夫人メアリー、曾祖母に著述家メアリー・モンタギューがいる。父ジェームズは母方のウォートリーを姓に加えたのち、さらにマッケンジー姓も付け加えている[2][3]。

彼も父と同じく陸軍に入り、1790年に第48歩兵連隊付を拝命した[4]。1791年に第7歩兵連隊に転任したのち、1793年には第72ハイランダーズ連隊付大尉の階級を購入している[4]。1797年に中佐に進級したほか、半年後に第12歩兵連隊付大佐に昇進した[2]。同年中に近衛連隊グレナディアガーズに移ったが、1801年には陸軍を退いた[2]。

議員当選後

1797年にコーンウォール州ボシニーの腐敗選挙区から立候補して当選、トーリー党に属する庶民院議員に就任して1818年までその議席を保った[3][5]。1818年にヨークシャー選挙区に鞍替えして議席を維持した[3]。

1812年にスペンサー・パーシヴァル首相が暗殺されると、彼は「より強くより効率的な政府(stronger and more efficient administration)」を求める決議を積極的に主導した[4]。摂政ジョージはこの決議を受けて初代ウェルズリー侯爵に大命降下したが、侯爵は組閣に失敗した[注釈 1][6]。そのため、第2代リヴァプール伯爵率いるトーリーが政権を続投することとなった[7]。ウォーンクリフはこの際にホイッグの非協力ぶりを嘲笑したという[4]。その後は政治的に重要でない問題への関与に終始した。続くカトリック解放問題では解放派を熱心に支援している[4]。1826年に落選後、ヨーク州ウォートリーのウォーンクリフ男爵に叙されて貴族院に移籍した[1][2][8]。

1832年改革法をめぐって

1832年改革法の記された羊皮紙の巻物。

1830年に中間層への選挙権拡大と腐敗選挙区廃止を求める第一次選挙法改正案が庶民院に提出された[9][10]。貴族院に属するウォーンクリフは法案に否定的であったが、庶民院での法案否決後はグレイ内閣による解散総選挙を憂慮していたという[4]。彼の思いとは裏腹に、政権を握るグレイ首相は国民のお墨付きを得ようと解散に踏み切った。続く第二次選挙法案にも反対したものの、抵抗の不利を悟った彼は政府に接近して妥協案を示したが貴族院で反発を受けた[5][4]。その後は自党内のリンドハースト卿の示した修正案に賛意を示すなど、どっち付かずの態度を見せたためにトーリー・ホイッグ双方の怒りを買っている[3][4]。他方、選挙法案は第三次改正案が提出されるとともに、政府側が法案を可決すべく貴族創家も辞さない姿勢を示した[9]。これを受けて、初代ウェリントン公爵も説得に動いたのち、貴族側も折れて法案可決に漕ぎ着けている[9][11]。

ピール内閣の閣僚として

サー・ロバート・ピールが1834年に政権を発足させるとウォーンクリフも王璽尚書として入閣した[5]。翌年の第一次ピール内閣総辞職に伴って尚書職を退くと、後任のメルバーン政権を批判し続けた[4]。ピールが1841年に政権を奪還すると彼も枢密院議長に任じられている[5]。しかし彼はこうしたポストに不満を抱いており、より重要な閣僚職への就任を望んでいたという[3]。議長在職中にはコーンウォール公領改革を目指す王配アルバート公に協力してコーンウォール州に土地を持つ貴族らとの利害調整を行ったとされる[12]。その成果は1844年コーンウォール公領法に結実して公領改革につながった[13]。また、穀物法廃止論争を巡っては強硬な反対閣僚の一人であったが、ピール首相はウォーンクリフが最終的には納得して閣内に残ってくれると考えていたという[3][4]。しかし、その論争の解決を見ないまま1845年に痛風と脳卒中のために69歳で急逝した[2][4]。爵位は長男のジョンが継承した[1][2]。

人物

  • 著述家チャールズ・グレヴィルは「ウォーンクリフには富も影響力も優れた才能もなく彼自身の党でも人気がない。(ただ、)彼は快活で思慮ぶかく政治に熱心にして公平、筋の通ったカントリージェントルマンである。その節度と誠実さのおかげで閣僚らの輪に加わることができた。それゆえ我が国に必要不可欠な奉仕をもたらしうる」と評した[14]。
  • 『完全貴族名鑑』は「貴族院における実質的指導者だったが成功した訳ではない」と評している[2]。

家族

エリザベス夫人を描いた肖像画。

1799年5月30日にエリザベス・クライトン(Elizabeth Caroline Mary Crichton、1779年3月5日 - 1856年4月23日、初代アーン伯爵の娘)と結婚した[2][1]。夫妻は三男一女を儲けている[2][1]。

  • (長男)ジョン(1801年4月23日 - 1855年10月22日)- 第2代ウォーンクリフ男爵
  • (次男)チャールズ・ジェームズ(1802年6月3日 - 1844年5月22日)
  • (三男)ジェームズ・アーチボルド(1805–1881)- 庶民院議員、法務次官を務めた。
  • (長女)キャロライン・ジェーン(1876年6月12日没)

脚注

注釈

  1. 摂政ジョージは大命降下の際に挙国一致内閣を求めたが、両党とも権力を持ちたくない時期であったために組閣に失敗した。

出典

  1. Heraldic Media Limited. “Wharncliffe, Baron (UK, 1826)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年11月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月20日閲覧。
  2. Cokayne, G. E., ed (1898). Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct, or dormant (U to Z, Appendix, Corrigenda, Occurrences after 1 January 1898, and General Index to Notes, &c.). 8 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 122-123. https://archive.org/details/completepeerage00cokagoog/page/n131/mode/2up
  3. “STUART WORTLEY, James Archibald (1776-1845), of Wortley Hall, Yorks.; 15 Curzon Street, Mayfair, Mdx. and Belmont, Perth. | History of Parliament Online”. www.historyofparliamentonline.org. 2021年1月30日閲覧。
  4. G. Le G. Norgate; revised by H. C. G. Matthew. "Wortley, James Archibald Stuart- [formerly James Archibald Stuart-Wortley-Mackenzie], first Baron Wharncliffe". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/26731。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  5. Chisholm, Hugh, ed. (1911). "1911 Encyclopædia Britannica/Wharncliffe, James Archibald Stuart-Wortley-Mackenzie, 1st Baron" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11 ed.). Cambridge University Press. p. 574.
  6. 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 978-4767430478。
  7. 坂井秀夫『興隆期のパクス・ブリタニカ 一つの歴史認識論』創文社、1994年。ISBN 978-4423710456。
  8. "No. 18259". The London Gazette (英語). 17 June 1826. p. 1478.
  9. 君塚直隆『よくわかるイギリス近現代史』ミネルヴァ書房〈やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ〉、2018年5月30日、66-67頁。ISBN 4623083187。
  10. 指昭博『図説 イギリスの歴史』(増設新版 初版)河出書房新社、東京都渋谷区、2015年6月30日。ISBN 9784309762340。
  11. May, Sir Thomas Erskine (1896a). The Constitutional History of England Since the Accession of George the Third, 1760–1860 (PDF) (英語). Vol. 1. p. 312-313.
  12. 君塚(2015) p.286
  13. 君塚(2015) p.286-289
  14. Charles C. F. Greville, A Journal of the Reigns of King George IV and King William IV, volume II (London, Longmans Green & Co, 1874), at page 213

参考文献

  • 青木康編著、仲丸英起、松園伸、君塚直隆 他、薩摩真介、一柳峻夫、金澤周作、川分圭子『イギリス近世・近代史と議会制統治』吉田書店、2015年。ISBN 9784905497387。

外部リンク

グレートブリテン議会
先代
ジョン・
ステュアート=ウォートリー

ジョン・ラボック
庶民院議員
ボシニー選挙区選出

1797年 – 1801年
同職:ジョン・ラボック
次代
連合王国議会
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会
先代
グレートブリテン王国議会
庶民院議員
ボシニー選挙区選出

1801年 – 1818年
同職:ジョン・ラボック 1801年 – 1802年
ジョン・ハイリー・アディントン 1802年 – 1803年
ジョージ・ピーター・ホルフォード 1803年 – 1806年
ヘンリー・ベアリング 1806年 – 1807年
レンドルシャム卿 1807年 – 1808年
第2代ディザート伯爵 1808年 – 1817年
ウィリアム・イェーツ・ピール 1817年 – 1818年
次代
ジョン・ウォード
コンプトン・ドムヴィル
先代
ミルトン子爵
ラッセルズ子爵
庶民院議員
ヨークシャー選挙区選出

1818年 – 1826年
同職:ミルトン子爵
次代
ミルトン子爵
ウィリアム・ダンカム
リチャード・
フォーテイン=ウィルソン

ジョン・マーシャル
公職
先代
マルグレイヴ伯爵
王璽尚書
1834年 – 1835年
次代
ダンキャノン子爵
先代
第3代ランズダウン侯爵
枢密院議長
1841–1845
次代
第5代バクルー公爵
名誉職
先代
第2代ハーウッド伯爵
ウェスト・ライディング統監
1841年 – 1845年
次代
第3代ハーウッド伯爵
イギリスの爵位
爵位創設 ウォーンクリフ男爵
1826年 – 1845年
次代
ジョン・
ステュアート=ウォートリー
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