ジョージ・シャーフ

経歴

生い立ち

シャーフは、ロンドンのセント・マーティンズ・レーン3番地 (3 St Martin's Lane) に生まれた。父は、バイエルン出身の細密画家であったジョージ・ジョハン・シャーフであり、叔父には俳優でイラストレーターでもあったヘンリー・シャーフがいた。ユニヴァーシティ・カレッジ・スクールで教育を受け、父の下で学び、ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツからメダルを受賞して、1838年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校に入学した[1]。

旅行

1840年、チャールズ・フェローズの2回目の小アジアへの旅に同行するよう誘われたシャーフは、その途上でイタリアにしばらく滞在した。3年後、シャーフは製図者として再び小アジアを訪れた。リュキア、カリア、リュディアの各地で風景や遺物の素描を多数制作し、それらは後に大英博物館に収蔵された。これら素描作品の一部は、フェローズによる文章を添えて、1847年に出版された。

画家として

イングランドに戻ったシャーフは、ミュラやクサントスの墓を描いた油彩画を、1845年と1846年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに出品した[2]。シャーフは、美術や骨董に関する様々な本にイラストレーションを提供し、特にマコーリーの『古代ローマの歌 (Lays of Ancient Rome)』(1847年)、ミルマンの『ホラティウス (Horace)』(1849年)、クグラーの『Handbook of Italian Painting』(1851年)や、スミス博士の古典学辞書類などが有名になった。

シャーフは、広く講演や教育にも取り組み、水晶宮におけるギリシア、ローマ、ポンペイの中庭 (courts) の構成にも関わった。1857年には、マンチェスター美術名宝博覧会 (Art Treasures Exhibition, Manchester 1857) の美術部門の責任者も務め、同年には新設されたナショナル・ポートレート・ギャラリーの書記兼監督に任じられた。その後の彼の人生は、このギャラリーのために捧げられた。

シャーフは、歴史的な肖像画に関するあらゆる事柄の知識において、誰にも引けをとらなず、この方面で多数の学術的論文を執筆していた。1885年、ギャラリーへの貢献を認められたシャーフは、バス勲章コンパニオン (CB) を与えられ、1895年はじめに辞任した際にはナイト・コマンダー (KCB) に昇格し、さらにギャラリーの信託理事 (trustee) に任じられた。シャーフは、長く患った後、1895年4月にロンドンで死去した[3]。

油彩画とイラストレーション

ギャラリー

参考文献

ジョージ・シャーフの肖像

ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵作品から

脚注

外部リンク

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