デイラ

デイラ ([ˈdrə, ˈdɛərə] DY-rə, DAIR;[1] 古ウェールズ語/カンブリア語: Deywr / Deifr; 古英語: Derenrice / Dere) は、ローマ時代以降のブリテンにおける歴史的地域。のちにアングル人デイラ王国が成立した[2]

デイラ王国
Kingdom of Deira

 

450年ごろ–654年
デイラの位置
デイラ(DEIRA)の位置(7世紀)
首都 ヨーク
言語 古英語共通ブリソン語
政府 君主制
歴史・時代 中世前期
  創立 450年ごろ
  バーニシアと同君連合 604年
  バーニシアと統合 654年

地域・国名

デイラという王国名はブリソン語由来で、さらにケルト祖語*daruに起源をもつ。この言葉は元はオークの木を意味し、現代ウェールズ語におけるderwの語源でもある。そこから派生して、デイラは「ダーウェント川の人々」を意味したと考えられている。マルトンラテン語デルウェンティオ (ラテン語: Derventio)[3]や、ロンドンデリー県・都市ロンドンデリーの現代アイルランド語名のデラ (アイルランド語: doire 発音 [ˈd̪ˠɛɾʲə])も同根である[4][5]

歴史

ブリトン人時代

ローマ帝国のブリタンニア支配終焉後、イングランド北部にはローマ支配期以前の部族勢力圏に似たような諸王国がいくつか出現した。ハンバー川ティーズ川に挟まれたDeywrあるいはDeifrと呼ばれた地域はかつてのパリシ族の領域に相当し、この時代には西にエルメト、北にバーシニアといったブリテン人王国が存在し、東側は北海に面していた。

初期のデイラの中心地はかつてのローマの要塞から発展した町ペトゥアリア(現ブラフ)で、考古学調査からこの時期にペトゥアリアが再び要塞化されていたことが分かっている。ペトゥアリアはパリシ族の中心地として繁栄していたが、4世紀半ばから、おそらく港が砂で埋まってしまったために、重要性を失っていた。それ以降は、デルウェンティオ(現マルトン)がこの地域の中心として機能していた可能性がある[6]

デイラにブリトン人の独立王国が存在していたかどうかは定かでなく、デイラ付近を治めていたブリトン人の王の名を伝えるような系譜、詩、年代記などは現存していない。ただローマ撤退後の5世紀前半にエルメトやバーシニアが独立王国となった背景には、権力継承や交代をめぐって激しい争いが繰り広げる文化が存在していたということがあり、デイラ地域もそうした文化のもとにあった。ウェールズ文学では、デイラはコオル老王の死後に数々の諸王国に分裂したヘーン・オグレッズ(古き北部)の一部であったとされている[7][8]

アングル人時代

ブリトン人の勢力下にあったデイラであったが、5世紀の第3四半期にアングル人ダーウェント峡谷に侵入し、王国を建設した[9]。アングル人のデイラ王国もハンバー川からティーズ川まで、東は北海から西はヨーク河谷西端まで広がっていた。のちにデイラ王国は北のバーニシア王国と統合し、ノーサンブリア王国を形成した。

12世紀前半のダラムのシメオンによれば、デイラ王国はハンバー川からタイン川にまで広がっていたが、ティーズ川以北は荒地であったという。エボラクム(実際はエブラウク、すなわち現在のヨークの旧称で呼ばれていた可能性がある)のブリトン人王国はデイラ王エドウィンに征服され、エボラクムは王国の首都となり、エオフォルヴィク(Eoforwic、「猪の地」の意)はアングル人のものとなった[10]

考古学研究によると、この地には5世紀半ばにはアングル人王国の王宮が置かれていた可能性がある。ただ、歴史上はっきりと存在が記録されているのは、6世紀後半のエラが最初である[11]。エラの死後、デイラ王国はバーニシア王エゼルフリスに征服され、彼の下で以後ノーサンブリア王国となる領域が統一された。616/617年にエゼルフリスがアイドル川の戦いで戦死すると、エラの子エドウィンがデイラ・バーニシア両王国を633年まで統治した[12]

エドウィンの後、甥のオズリックがデイラを支配した。しかしその後を継いだ子のオズウィンは、651年にエゼルフリスの子オズウィに殺害された。その後数年間は、デイラはバーニシア王オズワルドの子エゼルワルドが統治した[13]

ベーダ・ヴェネラビリスは『イングランド教会史(731年完成)でデイラに言及している[14]

アングル人のデイラ王一覧

在位 名前・英語名 原典表記 備考
559/560年-589年 エラ
Ælla

(Aelli)
ÆLLA YFFING DEIRA CYNING(デイラ王)

ÆLLA REX DEIRA
589/599年-604年 エゼルリック
Æthelric

(Aedilric)
ÆÞELRIC IDING BERNICIA 7 DEIRA CYNING

ÆÞELRIC REX BERNICIA ET DEIRA
バーニシア朝
593/604年?-616年 エゼルフリス
Æthelfrith
ÆÞELFERÞ ÆÞELRICING DEIRA CYNING
ÆÞELFERÞ REX DEIRA
アイドル川の戦いイースト・アングリア王レドヴァルドとエドウィンに敗れ戦死
デイラ朝
616年-632年10月12/14日 エドウィン
Edwin
EDVVIN ÆLLING BERNICIA 7 DEIRA CYNING
EDVVIN REX BERNICIA ET DEIRA
ハットフィールド・チェイスの戦いグヴィネズ王Cadwallon ap Cadfanとマーシア王ペンダに敗れ戦死。聖人
633年後半-634年夏 オズリック
Osric
OSRIC ÆLFRICING DEIRA CYNING
OSRIC REX DEIRA
バーニシア朝
633年-642年8月5日 オズワルド
Oswald
OSVVALD BERNICIA 7 DEIRA CYNING
OSVVALD REX BERNICIA ET DEIRA
マーシア王ペンダにより殺害。聖人
642年-644年 オズウィ
Oswiu
OSVVIO ÆÞELFRIÞING BERNICIA 7 DEIRA CYNING
OSVVIO REX BERNICIA ET DEIRA
デイラ朝
644年-651年 オズウィン
Oswine
OSVVINE OSRICING DEIRA CYNING
OSVVINE REX DEIRA
殺害
バーニシア朝
651年夏-654年後半/655年 エゼルワルドÆthelwold ÆÞELVVALD OSVVALDING DEIRA CYNING

ÆÞELVVALD REX DEIRA
654年-670年8月15日 オズウィOswiu OSVVIO ÆÞELFERÞING NORÞANHYMBRA CYNING

OSVVIO REX NORÞANHYMBRA
復位
656年-664年 アルフフリスAlchfrith ALCHFRIÞ DEIRA CYNING

ALCHFRIÞ REX DEIRA
664年-670年 エグフリスEcgfrith ECGFRIÞ DEIRA CYNING

ECGFRIÞ REX DEIRA
670年-679年 エルフウィンÆlfwine ÆLFVVINE DEIRA CYNING

ÆLFVVINE REX DEIRA

脚注

  1. A Complete Pronouncing Gazetteer, Or, Geographical Dictionary of the World, 1880
  2. McCarthy (2014年). An Early Historic Celtic Kingdom near the Solway”. The History Files. 2014年5月18日閲覧。
  3. Higham, p. 81
  4. Library Ireland Archived 8 February 2012 at the Wayback Machine. – Sketches of Olden Days in Northern Ireland
  5. Mills 2003, p. 430.
  6. B. Sitch & A. Williams (1992). Roman Humberside. Humberside County Council Archaeology Unit
  7. Morris, p. 54.
  8. Koch 2006, pp. 584–585.
  9. Higham, p. 98
  10. Malam 2011, p. 24.
  11. Higham, pp. 77-78
  12. Garmonsway, G. N. (1954). The Anglo-Saxon Chronicle. London: Dent. pp. 26–27. ISBN 0460106244
  13. D. P. Kirby, The Earliest English Kings (1991, 2000), page 78.
  14. Bede 1910, Book III.

参考文献

関連文献

  • Geake, Helen & Kenny, Jonathan (eds.) (2000). Early Deira: Archaeological studies of the East Riding in the fourth to ninth centuries AD. Oxford: Oxbow. ISBN 1-900188-90-2ISBN 1-900188-90-2
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