ヌーリ・ジョンケル

ヌーリ・ジョンケル (Mehmet Nuri Conker)は、オスマン帝国末期およびトルコ共和国初期の軍人。トルコの政治家。ムスタファ・ケマル・アタテュルクの最も古くからの友人として知られている。[1]最終階級は大佐。

メフメト・ヌーリ・ジョンケル
Mehmet Nuri Conker
ヌーリとケマル、1931年、イスタンブールにて
生誕 1881年10月13日
オスマン帝国の旗 オスマン帝国、サロニカ(現ギリシャの旗 ギリシャテッサロニキ)
死没 (1937-01-11) 1937年1月11日(55歳没)
トルコの旗 トルコアンカラ
所属組織 オスマン帝国軍
トルコ軍
軍歴 オスマン: 1902–1919
トルコ: 1920–1927
最終階級 大佐
除隊後 トルコ大国民議会議員

オスマン帝国

1881年10月13日 (ルーミー暦1297年9月30日)、サロニカ (トルコ語名:セラーニク、現テッサロニキ)で[2][注釈 1]オスマン・ベイとアイシェ・ハヌムの息子として生まれた。[3]

サロニカ陸軍幼年学校、モナスティル陸軍少年学校を経て、1902年12月6日に陸軍士官学校 (1318年入学組歩兵科15席)を歩兵少尉として卒業した。12月7日に陸軍大学に進み、1905年10月23日に同学を優秀大尉として修了し、第42予備連隊第4中隊長に任命された。[4]

1907年、第3軍第5狙撃大隊副大隊長、第5軍下士官学校長を歴任した。1908年、模範大隊の教官補となり、ドイツ帝国皇帝ウィルヘルム2世を大隊とともに、ヤニヤ (現ヨアニナ)で出迎え、皇帝の閲兵を受けた。1909年4月13日の3月31日事件が起きると、4月11日、イスタンブールに入城しマチカ兵営兵舎を占拠し、4月24日のタシュクシュラの戦いに参加した。[5]

1910年にサロニカの参謀士官養成所副司令官となった後、アルバニア反乱の鎮圧任務に就いた。1911年3月31日、試験に合格し参謀となった。1911年6月9日、ユスキュプ二等予備師団の参謀となり、10月18日、伊土戦争が勃発すると、ベンガジ地区に派遣され、12月19日、ベンガジ戦隊参謀に任命された。1912年5月23日、少佐に昇進し、トリポリタニアで活動した後、10月3日、イスタンブールに戻った。バルカン戦争では、トゥルグート・レイス級装甲艦トゥルグート・レイス」付参謀を経て、ダーダネルス海峡要塞地区参謀、カヴァク支隊参謀を歴任し、1913年2月8日、ボラユル地区で負傷し、治療のため、1913年4月14日から1ヶ月半程ドイツに滞在した。[6]

第一次世界大戦

その後、参謀本部第2課ブルガリア係長、第1師団参謀長を務めた後、第3軍団隷下の第24連隊長に任命され、第一次世界大戦では、同連隊を指揮してスエズ運河作戦に参加した。その後、ガリポリ戦線に移り、1915年8月10日、ジョンクバユルの戦いで負傷した。パンガルトゥ病院で治療を受け、1915年8月23日に中佐に昇進し第8師団長に任命され、カフカース戦線に送られた。戦線での功績により2年の戦時加算が付与された。3ヶ月間の傷病休暇を得てイスタンブールに来た後、1917年4月23日、駐在武官としてハーグに赴任した。[5][6]

トルコ独立戦争

ムスタファ・ケマル・パシャのエーゲ海歴訪の途上で、1928年6月5日、ヨット「エルトゥールル」号の甲板にて。左から右へ:ヌーリ・ベイ、ムスタファ・ケマル・パシャ、ファフレッディン・パシャ (背後)、シュクリュ・ナイリ・パシャ

ムドロス休戦協定後、1920年6月、アナトリアに渡りアンカラに至った。6月13日、出版情報総局長、9月11日、アンカラ司令部司令官兼アンカラ県知事、9月16日から1921年の3月まで、第41師団長兼アダナ県知事としてキリキア地方でフランス軍と戦った。1921年3月にドイツに派遣され、軍需物資の調達と輸送の任務に従事した。1921年9月1日、大佐に昇進した。1923年8月1日、第二期大国民議会でキュタヒヤ県から601票を獲得して選出された。1927年2月22日に赤帯付独立勲章を授与され、5月1日、第三期大国民議会でキュタヒヤ県から再選され、7月10日に希望により軍を退役した。[7][6]

自由共和党

1930年8月12日にアリ・フェトヒ・ベイ党首のもと結成された自由共和党の書記長を務めた。しかし、同党は、1930年11月17日に解散した。

晩年

1931年5月4日、第四期大国民議会選挙でガーズィアンテプ県から大国民議会議員に選出され、大国民議会副議長を1935年まで務めた。1935年5月1日、第五期大国民議会選挙で同選挙区から再選された。1937年1月7日、意識を消失し、1月11日[注釈 2]、アンカラで亡くなり、[2]ジェベジ殉職者墓地に埋葬されたが、1988年にトルコ国立墓地に改葬された。

家族

  • アイシェ・ハヌム:夫人、セリム・ジャヒト:息子、ジャヒデ:娘、メスート・ギョカルプ:息子
  • サーリフ・ボゾク:義理の兄弟 (ヌーリの妹デュッリイェ・ハヌムの夫)

著書

  • Nuri Conker, Zâbit ve kumandan, Derseadet-Tanin Matbaasi, 1959.

注釈

  1. 大国民議会研究会の『トルコ議会史』によると、モナスティル (トルコ語名:マナストゥル、現ビトラ)で生まれた。人口台帳には、エラズーのルザーイエ街区66番地に登録されていた。とある
  2. トルコ参謀本部の『トルコ独立戦争に参加した師団長以上の指揮官の略歴』によると、1月2日に死亡した、とある。

出典

  1. Erik Jan Zürcher, The Unionist Factor: Tthe Role of the Committee of Union and Progress in the Turkish National Movement, 1905-1926, BRILL, 1984, ISBN 9789004072626, p. 48.
  2. Murat Koraltürk, "Bir Dostun Kapısını Çalanlar! Nuri Conker'e Gelen Mektuplar", Tarih ve Toplum, Sayı 218, Şubat 2002, pp. 42-48.
  3. Türk Parlamento Tarihi Araştırma Grubu, Türk Parlamento Tarihi: TBMM - II. Dönem 1923-1927 - III. Cilt: II. Dönem Milletvekillerin Özgeçmişleri, Türkiye Büyük Millet Meclisi Vakfı Yayınları, Ankara, 1995, ISBN 975-7291-04-8, p. 567. (トルコ語)
  4. T.C. Genelkurmay Harp Tarihi Başkanlığı Yayınları, Türk İstiklâl Harbine Katılan Tümen ve Daha Üst Kademlerdeki Komutanların Biyografileri, Genkurmay Başkanlığı Basımevi, Ankara, 1972, p. 174. (トルコ語)
  5. Türk Parlamento Tarihi Araştırma Grubu, Ibid., p. 568.
  6. T.C. Genelkurmay Harp Tarihi Başkanlığı Yayınları, Ibid., p. 175.
  7. Türk Parlamento Tarihi Araştırma Grubu, Ibid., p. 569.

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ヌーリ・ジョンケルに関するカテゴリがあります。

  • Afet İnan, Atatürk'ün Askerlik Üzerine Kitapları (1908-1918), İş Bankası Yayınları, 27 Mayıs 1959. (Balıkesir Üniversitesi) (トルコ語)
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