マリ・ルプラウ

マリ・ルプラウ(Henriette Marie Antonette Luplau、1848年9月7日 - 1925年8月16日)は、デンマークの画家である。エミリー・ムントとともに、コペンハーゲンに女性のための美術学校を開いたことなどで知られている[1]。

マリ・ルプラウ
Marie Luplau
1910年ころのルプラウ
誕生日 (1848-09-07) 1848年9月7日
出生地 デンマーク、ヒレレズ
死没年 1925年8月16日(1925-08-16)(76歳)
死没地 デンマーク、フレゼレクスベア(Frederiksberg)

略歴

デンマークのシェラン島のヒレレズ(Hillerød)で司祭の娘に生まれた。母親は女性の権利のための活動家であった。コペンハーゲンに出て、女性のための美術学校を運営していたヴィルヘルム・キューンの元で学び[2]、エミリー・ムント(1842-1922)と知りあった。ミュンヘンに出て修行を続け、その後パリに移り、アカデミー・コラロッシで学んだ。

1875年にデンマーク女性協会(Dansk Kvindesamfund)の支援を受けてルプラウと5人の女性画家は、デンマーク王立美術院に入学願書を提出したが、美術院は女性の入学を認めなかった[3]。

1886年にムントとルプラウは自宅に女性のための絵画教室を開き、1888年に王立美術院が女性の入学を認めた後、女性画家が入学試験に合格するように訓練し、この学校は191年まで続けられた。ルプラウらの訓練を受けた女子学生には Emilie Demant Hatt(1873–1958)やAstrid Valborg Holm (1876–1937)、Olivia Holm-Møller (1875–1970)らがいた。

著作家としても活動し、1894年に「女性のためのサイクリング("Om Cykling for Damer")」というエッセイを出版し、女性の健康やサイクリング、女性の衣服の改良などについて論じた[4]。

1917年に母親や他のデンマークの初期のフェミニストたちの姿を描いた絵画作品は、デンマーク国会議事堂に長年飾られた。 2007年にオーフスにあるデンマーク女性博物館(KØN - Gender Museum Denmark)でルプラウとムントの作品展が開催された[5]。

私生活でもルプラウとムントはフレゼレクスベア(Frederiksberg)の同じ家に住むようになり、1891年に1歳のCarla Mundt-Luplauを共同の養女として育てた。1922年にエミリー・ムントが亡くなった3年後、1925年に76歳でフレゼレクスベアで亡くなった。

作品

参考文献

  1. “Luplau, Henriette Marie Antonette”. Dansk Kvindebiografisk Leksikon. 2021年1月1日閲覧。
  2. Barbara Sjoholm, "What We Want: The Art of Marie Luplau and Emilie Mundt" Feminist Studies 35(3)(Fall 2009): 549-572.
  3. Inga Christensen, "Early 20th Century Danish Women Artists in Light of DeBeauvoir's The Second Sex" Woman's Art Journal 9(1)(Spring-Summer 1988): 10.
  4. Marianne Thesander, The Feminine Ideal (Reaktion Books 1997): 102. ISBN 9781861890047
  5. "Symbiose af liv og kunst" Kvindemuseet Denmark, August 30-December 30, 2007.
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.