ヤン・フェイト

ヤン・フェイト(Jan Fijt、姓の綴りは Fytとも、1609年8月19日 - 1661年9月11日)は、17世紀のフランドルの画家である。静物画や動物や狩猟の場面を描いた作品で知られている。

ヤン・フェイト
Jan Fijt
ヤン・フェイト作「赤い敷物の上の猟の獲物」
誕生日 (1609-08-19) 1609年8月19日
出生地 アントウェルペン
死没年 1661年9月11日(1661-09-11)(52歳)
死没地 アントウェルペン

略歴

アントウェルペンで、シント=ニクラース出身[1][2]の裕福な商人の息子に生まれた[3][4]。ファン・デン・ベルヘ(Hans van den Berghe)という画家の弟子として1621年にアントウェルペンの聖ルカ組合に登録されている。ファン・デン・ベルヘはハールレムヘンドリック・ホルツィウス(1558-1617)に学び、アントウェルペンピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)に学んだ画家である[5]。1629年から1631年の間はフェイトはアントウェルペンの動物画家フランス・スナイデルス(1579-1657)に学び、1630年に聖ルカ組合の親方として登録された[4]

国外での修行をはじめ、1633年にパリに滞在した後、翌年イタリアに旅し、ヴェネツィアでヴェネツィア貴族のセグレド家やコンタリーニ家のために働いた[6]。1635年にはローマに滞在し、ローマで活動する、オランダやフランドル出身の画家達のグループ、「Bentvueghels」の中で活動し、仲間からは「Goudvink(鳥の種類の名前)」のあだ名で呼ばれた[4]。イタリアではナポリやフィレンツェ、ジェノアにも滞在した可能性が高い[6]

1641年にアントウェルペンに戻り、その後はアントウェルペンで活動した。繁盛した工房を運営し、地元や国外のパトロンや画商からの注文をお受けて、裕福な画家になった[6]。アントウェルペンに設立されていた「ローマ人組合(フランス語:Guilde des romanistes、オランダ語: Confrérie van romanisten、ローマに滞在したことのある様々な著名人の親睦団体)」に1650年に加入した。1652年にローマ人組合の役員になった[6]。1654年に結婚した。

1661年にアントウェルペンで没した。

フェイトの弟子にはピーテル・ボエル(1622-1674)やヤコブ・ファン・デル・ケルクホーフェン(Jacob van der Kerckhoven)がいる[6]

作品

参考文献

  1. van den Branden, F. Jos. (1878). Geschiedenis der Antwerpsche Schilderschool Volume 3. J.-E. Buschmann. p. 105. https://books.google.com/books?id=JWijzzBLSFMC 2021年11月30日閲覧。
  2. Peter Fijt”. University of Amsterdam. 2021年11月30日閲覧。
  3. Liechtenstein, the Princely Collections, Metropolitan Museum of Art, 1985, pp. 295–296
  4. Joannes Fijt at the Netherlands Institute for Art History
  5. Jan van den Bergh at the Netherlands Institute for Art History
  6. Matthias Depoorter, Joannes Fijt at Barok in Vlaanderen
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