ルートヴィヒ6世 (プファルツ選帝侯)

生涯

フランス語を学ぶため、1554年にドルのブルゴーニュ大学を訪れた。ルートヴィヒはプファルツ選帝侯の推定相続人として、すでにプファルツ選帝侯オットー・ハインリヒの宮廷で政務に参加していた。1563年より、オーバー・プファルツの総督を務めた。

熱心なカルヴァン派だった父フリードリヒ3世や息子フリードリヒ4世とは異なり、ルター派を優遇し、カルヴァン派をハイデルベルク大学の職から排除した[2]。カルヴァン派の神学者たちは、ルートヴィヒの弟ヨハン・カジミールのノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセにあった宮廷に保護を求め、「カジミーリアヌム・ノイシュタット」を設立した。ケルン戦争中、ルートヴィヒ6世はケルン大司教ゲープハルト・トルフゼス・フォン・ヴァルトブルクの側に立った唯一のルター派の諸侯であった。ルター派による領内の再編に伴い、ルートヴィヒ6世は新しい宮廷憲法、秩序憲法を採択し、1582年には大憲法を採択した。

子女

1560年7月8日にヘッセン方伯フィリップ1世の娘エリーザベトと結婚[3]、12人の子を儲けたが、3人しか成長出来なかった。

  • アンナ・マリア(1562年 - 1589年) - スウェーデン王カール9世と結婚[4]
  • エリーザベト(1562年)
  • ドロテア・エリーザベト(1565年)
  • ドロテア(1566年 - 1568年)
  • フリードリヒ・フィリップ(1567年 - 1568年)
  • ヨハン・フリードリヒ(1569年)
  • ルートヴィヒ(1570年 - 1571年)
  • カタリーナ(1572年 - 1586年)
  • クリスティーネ(1573年 - 1619年)
  • フリードリヒ4世(1574年 - 1610年) - プファルツ選帝侯[3]
  • フィリップ(1575年)
  • エリーザベト(1576年 - 1577年)

1583年、オストフリースラント伯エッツァルト2世の娘アンナと再婚したが、子は無かった。

脚注

  1. Thomas 2010, Appendix B.
  2. Jeffery 2018, p. 25.
  3. Thomas 2010, p. 39.
  4. Cook & Broadhead 2012, p. 329.

参考文献

  • Cook, Chris; Broadhead, Philip (2012). The Routledge Companion to Early Modern Europe, 1453-1763. Routledge
  • Jeffery, Renée (2018). Princess Elisabeth of Bohemia: The Philosopher Princess. Lexington Books
  • Thomas, Andrew L. (2010). A House Divided: Wittelsbach Confessional Court Cultures in the Holy Roman Empire, C. 1550-1650. Brill

外部リンク

先代
フリードリヒ3世
プファルツ選帝侯
1576年 - 1583年
次代
フリードリヒ4世
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