ローマ問題
概要
「イタリア統一運動」も参照
第1回イタリア国民議会
1861年2月18日、第1回イタリア国民議会がサルデーニャ王国の王都トリノで開催された。3月17日に議会はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のイタリア国王即位を承認した。3月27日に王国の首都は投票によりローマ(ローマ教皇領)とされた。
アスプロモンテの戦い
1862年8月14日、教皇領がイタリアから独立していることをフランスに保証されていることに不満を持つジュゼッペ・ガリバルディによるアスプロモンテの戦いが起こったが、イタリア政府のウルバーノ・ラッタッツィ首相はこの行動を認めず、イタリア政府軍に鎮圧された。
ローマ占領
1870年に起こった普仏戦争によりローマ教皇領(752年 - 1870年)を守護していたフランス軍が撤退すると、イタリア王国のジョヴァンニ・ランツァ首相は教皇領を占領し(ローマ占領)、翌年ローマへ遷都した。同年5月13日にイタリア王国は教皇保障法を制定してその地位を保障しようとした。
しかし教皇庁は、カトリック教会が特定の政治権力の影響を受けないことを理由にこれを拒絶。ピウス9世はイタリア政府に関わる者すべてを破門するという強硬な処置をとった。 教皇側が拒否、国政への不参加を呼びかけるなど、イタリア王国とローマ教皇の対立構図が形成された。これによりイタリア王国と教皇庁の関係は断絶し、教皇は自らを「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と称した。
影響
ローマ進軍
詳細は「ローマ進軍」および「イタリア戦線 (第一次世界大戦)」を参照
関連項目
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