上山義房
概要
上山氏は里見氏の一門の天童氏分族で、血縁的には最上氏の祖斯波兼頼の孫である天童頼直が子の満長を上山に配したことから始まる。
生涯
永正年間伊達氏はたびたび上山領に侵入し、永正5年(1508年)居城高楯城を落とされてしまう。義房はわずかな家臣と逃亡し、天童城に潜伏。高楯城には伊達家の小梁川真範が入った。永正11年(1514年)2月伊達稙宗が村山地方に侵入すると最上氏・天童氏・山野辺氏・寒河江氏などと長谷堂で合戦となった[1]。最上義定はこれに敗北し、12月伊達稙宗の妹を娶ることで和議を結び[2]、実質的に傘下となった。
永正17年(1520年)最上義定が継嗣の無いまま没すると、伊達氏は最上氏に養子を出して完全な傀儡にしようと企み、村山地方の国人は伊達氏に対して次第に抵抗するようになっていった。これを見た義房が突如姿を現し再び反乱をおこすと、寒河江城主寒河江孝広や、天童城主天童頼長、成沢氏など有力国人が加担した。しかし、伊達稙宗は破竹の勢いで上山に侵攻し、義房は戦死してしまう。
脚注
- 『大日本史料』第9編5冊95頁。「伊達正統世次考」
- 『大日本史料』第9編5冊96頁。「寒河江系図」
参考文献
- 斯波最上氏諸列記
- 陸奥・出羽 斯波・最上一族
- 奥羽永慶軍記
- 最上軍艦
- 山形県教育委員会『山形県中世城館跡調査報告書(村山地区)第2集』平成8年 p.64、p.66
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