上田鳳陽

上田 鳳陽(うえだ ほうよう、1769年明和6年 - 1854年1月6日嘉永6年12月8日》)は、江戸時代中期〜後期の儒学者国学者山口大学建学の祖。名は、上田茂右衛門纉明(もうえもんつぐあき)。

 
凡例
上田 鳳陽
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 1769年明和6年)
死没 1854年1月6日嘉永6年12月8日
改名 纉明、字:恭述、通称:幾之允、茂右衛門
墓所 山口県山口市乗福寺[1][2]
官位正五位
主君 毛利重就毛利治親毛利斉房毛利斉熙毛利斉元毛利斉広毛利敬親
長州藩
父母 父:宮崎在政、養父:上田清房

経歴・人物

1769年(明和6年)、長州藩の下級藩士であった宮崎猪兵衞在政(みやざき いひょうえありまさ)の三男として現在の山口市大内氷上で生まれる[3][4]。幼少の頃、上田平右衛門清房の養子となり、清房亡き後、跡を継ぐ。幼い頃から学問が好きで山口では文学を学ぶ。1800年寛政12年)11月、32歳の時、藩校明倫館に入学(当時の学友として山県太華中村牛荘がいる)。藩費生の待遇を受けると共に3年という規定年数を超えて、修学し、1809年文化6年)まで儒学国学を学ぶ。同年11月、修学を終えて萩から山口に帰郷。山口に学問所が無かった事から、藩士の教育を受ける場所として、1815年(文化12年)、47歳の時、学問所として山口講堂(現・山口大学の淵源)を開設。その貢献は藩主に大いに認められ、中級武士に昇格し、研究専念のため儒役に就く。

晩年

山口講堂開設後、経営を門人に委ね、明倫館に再入学し、主に大黒屋本と称される書籍を研究。一年程後、山口に戻り、山口講堂を経営。1834年天保5年)、藩主毛利敬親より自筆の聖号を下賜され、紋章入りの茶地金蘭織の布を与えられる。後に山口講堂に納め、志ある人々に礼拝を許した。1854年1月6日嘉永6年12月8日)、85歳で他界。

大正4年(1915年)、正五位を追贈された[5]

人柄

読書家であり、特に古文書・古器物に関して造形を深めた。又、情に篤い人柄である。懐かしい友人が訪ねてきた折には、ご馳走等でもてなした。帰りは後ろ姿を見えなくなるまで送り続けたといわれている[6][1][4]

鳳陽忌

  • 毎年の命日には、「鳳陽忌」と称して、乗福寺にて山口大学学長を始め、理事鳳陽会の有志が集まり、座禅を組み、山口大学の祖として厳粛に供養を行なっている[7]。また新年の御墓参りを行い、山口大学の更なる飛躍を願い、学長自ら気持ちを新たに一年を迎えている。時期をはかり、御墓の世話等を行なっている[2]

関連項目

脚注・リンク

  1. 上田鳳陽先生 ふるさと大内、山口市立大内小学校 2018年7月31日閲覧。
  2. 上田鳳陽先生のお墓の塀を修復しました 山口大学 2018年7月31日閲覧。
  3. 上田鳳陽書 デジタルミュージアム 2018年7月31日閲覧。
  4. 「上田鳳陽」先生のこと。 一般社団法人鳳陽会 2018年7月31日閲覧。
  5. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.37
  6. 建学の祖 上田鳳陽 山口大学(『山口大学の来た道』1 山口講堂から山口中学へ) 2018年7月31日閲覧。
  7. 上田鳳陽先生の命日を偲ぶ「鳳陽忌」を行いました 山口大学 2018年7月31日閲覧。
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