不破関
不破関(ふわのせき)は、古代東山道の関所の一つ。現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあり、史跡としては不破関跡(美濃不破関跡)と呼ばれる[1]。

不破関のおよその位置を示した地図

不破関跡

壬申の乱の時に大海人皇子が兜をかけたとされる兜掛石
歴史
創設
『日本書紀』巻第28壬申紀(天武天皇元年(672)6月壬午(22)条)によれば、壬申の乱(672年)において大海人皇子(後の天武天皇)が美濃国出身の舎人である村国連男依らに命じ、安八麿郡(安八郡)湯沐令の多臣品治(多品治)が郡で兵の徴発を行って「不破道」を塞ぎ、これが大きな勝因となった[2][注 1]。
壬申の乱後、律令体制のもとで都の警護のため、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに東山道に不破関が「三関(さんげん)」として整備された[1][2]。
不破関の創設時期については、遺跡からの出土遺物のほとんどが8世紀初頭以降のもので、史料上「三関」の初見が『続日本紀』和銅元年(708) 3月乙卯(22)条であることなどから8世紀初頭と考えられている[2]。
文化
- 「人住まぬ 不破の関屋の 板庇(びさし) あれにし後は ただ秋の風」(藤原良経)
- 「秋風や 藪も畠も 不破の関」(松尾芭蕉)
- 「しのぶ草 庇にうゑよ ふはの関」(小林一茶)
- 「大友の 王子の王に 点うちて つふす玉子の ふわふわの関」(大田南畝(蜀山人)の狂歌)
など
注釈
- ただし、『日本書紀』の「不破道」が後世の「不破関」であるとは考えられておらず、壬申の乱の際に近江側の動きを封じるために同地の周辺を封鎖したもので特定の施設を指したものではないと考えられている[2]。
脚注
- “不破の関”. 岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所. 2023年8月28日閲覧。
- 富田, 真一郎 (2023-02-28), “不破関跡 北限土塁確認調査報告書”, 不破関跡 北限土塁確認調査報告書, 関ケ原町文化財報告書, 第4集, doi:10.24484/sitereports.131937
- “不破関に8世紀前半の遺構初確認、50年ぶり発掘調査 格式高い建物、初期の政庁か”. 岐阜新聞 (2023年2月18日). 2023年2月19日閲覧。
- “不破の関跡”. 岐阜県. 2020年8月19日閲覧。
- “不破関とは”. 関ケ原町歴史民俗資料館. 2020年8月19日閲覧。
関連項目
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