仁寛
生涯
仁寛は、村上源氏の嫡流にして左大臣の源俊房の子として生まれた。叔父の顕房は右大臣で久我源氏の祖、従姉妹の賢子は白河天皇の中宮で堀河天皇の生母。また、兄の勝覚(しょうがく)は、真言宗系修験道の有力6流派(小野六流)のうち最大の流派・醍醐三宝院流の開基であった。
仁寛は、勝覚の弟子として真言宗を熱心に学び、真言宗の僧の最高位である阿闍梨にまで上り詰めた。そして、当時村上源氏が支持していた輔仁親王(後三条天皇の第3皇子)の護持僧に任ぜられた。
永久の変
延久4年(1073年)に皇位を第一皇子の貞仁親王(のちの白河天皇)に譲った後三条天皇はその死に際し、次代の天皇に輔仁親王を据えることを遺言した。しかし、即位した白河天皇はこれに違背し、息子の善仁親王(堀河天皇)に譲位して院政を敷いた。更に堀河天皇が夭逝すると、同い年の源氏有仁を置いて当時5歳の宗仁親王(鳥羽天皇)を立てた。支持する輔仁親王が遠ざけられたことに対し、村上源氏は不満を募らせた。
永久元年(1113年)、仁寛は輔仁親王を皇位に就けるべく、鳥羽天皇の暗殺を謀った。しかしこの陰謀は事前に露見。実行役とされた童子・千手丸の供述によって仁寛は捕らえられ、尋問の末に犯行を自白した。同年11月、仁寛は伊豆の大仁へ流された(永久の変)。
関連項目
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.
.jpg.webp)