伊藤就安
伊藤 就安(いとう なりやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。石見吉見氏の家臣で、後に毛利氏家臣・長州藩士となる。父は伊藤頼時。
凡例 伊藤就安 | |
|---|---|
| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
| 生誕 | 天正6年(1578年) |
| 死没 | 万治3年6月30日(1660年8月6日) |
| 別名 | 通称:喜太郎→弥右衛門 |
| 主君 | 吉見広頼→広長→毛利秀就→綱広 |
| 藩 | 長州藩 |
| 氏族 | 清和源氏範頼流石見吉見氏庶流 伊藤氏 |
| 父母 | 父:伊藤頼時 |
| 兄弟 | 元利、就安 |
| 子 | 就起 |
生涯
吉見氏家臣時代
天正6年(1578年)、吉見氏家臣の伊藤頼時の次男として生まれる[1]。
天正10年(1582年)または天正12年(1584年)、父・頼時は遺恨から実父方の一族である須子某を討ち果たしたが、相討ちとなって頼時も死去した[2]。これによって、兄の元利が後を継いだ[2]。
天正20年(1592年)から始まる文禄の役では、兄の元利と共に吉見元頼に従って毛利元康の軍に属し朝鮮に渡海した。文禄2年(1593年)2月12日の幸州山城の戦いで兄と共に武功を立てる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に毛利氏は防長2ヶ国に減封された。これに伴って吉見氏も石見国津和野を離れることとなり、就安も従った。慶長9年(1604年)には吉見広行が毛利氏を出奔したため、隠居していた広行の父・吉見広頼が吉見氏当主を代行することとなる。
脚注
- 『閥閲録』巻42「伊藤喜右衛門」家譜。
- 『閥閲録』巻66「伊藤彦右衛門」家譜。
- 『閥閲録』巻66「伊藤彦右衛門」第1号、慶長14年12月30日付 伊藤元利宛て毛利輝元書状。
参考文献
- 『萩藩閥閲録』巻42「伊藤喜右衛門」、巻66「伊藤彦右衛門」
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