住厭城
住厭城(「すみあきじょう[1]」または「すみあくじょう[2]」)は、福岡県久留米市御井町[1][2]にあった日本の城(山城)。
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|---|---|
| 別名 | 杉ノ城[1]、杉城[2] |
| 城郭構造 | 山城 |
| 築城年 | 南北朝時代[2] |
| 廃城年 | 不明[2] |
| 指定文化財 | 未指定 |
| 位置 | 北緯33度18分02.0秒 東経130度34分06.4秒 |
| 地図 |
![]() 住厭城 |
構造
高良山山頂から西方の標高約310mの尾根に位置する。尾根の最高部に東西100m、南北20mほどの主郭があり、切通しを挟んで西側に東西50m、南北10mの二郭、さらにその西に東西50m、南北25mの三郭があった[1]。主郭の南側と南東側に土塁と切通し[1]、三郭の北側に30条の畝状竪堀群が残り[1][2]、北側を防御正面としていた。
耳納スカイラインの道路沿いに「杉城跡」の標識がある[2]。
歴史
南北朝時代
城がある尾根には高良大社が鎮座していたが、南北朝時代に大社を現在地に移し、その跡地に山城を築いたのが住厭城の由来とされる。1336年(延元元年・建武3年)、肥後国の菊池武敏が住厭城と別所城(毘沙門岳城)を本拠地にして大宰府の少弐氏を攻撃した記録があり[2]、『高良山地名之事』には「菊池氏ハ千五百騎ニテ籠城也(菊池氏は1,500騎にて籠城なり)」とある[1]ことから、それまでには城が存在していたことになる。1359年(正平14年・延文4年)には、菊池武光に奉じられた南朝方の征西将軍懐良親王が布陣し、北朝方の少弐氏・大友氏と対決した(筑後川の戦い)。1372年(文中元年・応安5年)には、大宰府陥落の際の征西府が設置された[2]。
参考文献
- 磯村幸男・阿蘇品保夫・森下功・三木靖:編『福岡・熊本・鹿児島』日本城郭体系第18巻 新人物往来社 1979年 P.118-119
- 廣崎篤夫『福岡県の城』 海鳥社 1995年 ISBN 4-87415-100-0 P.345-346
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』、角川書店、1988年
- 日本歴史地名大系 (オンライン版)
関連項目
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