倉重アサコ
来歴
山口県美祢郡美東町で、農家の長女として生まれる。尋常小学校を出て「松政」に奉公[注 2]した後、一旦、結婚退職する[4]。
1940年(昭和15年)、夫の病死にともない、31歳の時から「松政」で再び働き始める。徳山港が海軍の軍港だったこともあり、「松政」には海軍士官が度々訪れていた[4]。
1944年(昭和19年)11月7日[5]、板倉光馬少佐(大津島の回天隊水雷参謀兼指揮官)の依頼により、「松政」で60人のすき焼き宴会の世話をした事が、回天搭乗員たちとの親交の始まりだったという。以後、若い予科練生徒たちから、『お重さん、お母さん』と慕われた。「松政」では、第一回出撃(同年11月18日)前夜の壮行会も行われ、倉重は出撃する回天搭乗員たちに白い絹のマフラーを贈ったという[4]。
終戦後の大津島・回天基地の部隊解散の日、生き残った搭乗員と初めて島に渡り、10年後の11月8日(最初の出撃記念日)に「松政」で再会することを誓い合った。その1955年(昭和30年)11月8日から毎年、大津島で慰霊祭を行うようになった。倉重は、住み込みだった「松政」の2階の自室に、夫の位牌と『人間魚雷回天将兵の諸英霊』と戒名を施した戦没隊員の位牌を置き、朝夕手を合わせ供養を続けたという[6]。
1971年(昭和46年)7月、「松政」閉店にともない、倉重は里に帰った。毎年11月の大津島の慰霊祭には欠かさず出席した[4]。
2012年(平成24年)12月19日、「回天の母 お重さんに感謝する会」によって、回天記念館の前庭にお重桜(しだれ桜のエドヒガン)が植樹された[3][5]。
関連文献
- 産経新聞朝刊(大阪版では2007年6月5日-13日連載) 誰がために散る もう一つの「特攻」
脚注
- 朝日新聞 1985年2月23日付、23面
- 追悼「回天」と「おしげさん」 - 会報 特攻 第83号 35頁
- サクラを植え回天の母を語り継ぐ NNNニュース(山口放送)2012年12月19日
- 週刊新潮『昭和の墓碑銘』新潮社(2006年)189-192頁
- 日刊新周11月26日のニュース 新周南新聞社
- 産経新聞 2007年6月5日付
- 注
外部リンク
- 徳山(松政旅館)回天の母 2009年10月05日
- 「松政」は、現在の糀町1丁目付近にあったという。
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