六人部
概要
一説によると、節折(よおり)の料の篠を行進する品部というが[1]、詳しい職掌は未詳である。
六人部は平安右京と美濃国・伊勢国・越前国・紀伊国・讃岐国などの諸国に設定されていたらしい。この部の伴造氏族は「六人部氏」あるいは「身人部氏」であり、無姓の六人部氏が『新撰姓氏録』「右京神別」に天孫として、尾張連氏同様、火明命五世の孫、武礪目命の後であるとなっている。「山城国神別」にも「天孫」としての「六人部連」が見え、「火明命之後也」となっている。「摂津国神別」にも「天孫」としての「六人部連」があり、同じく火明命の五世孫、建刀米命の後であると記されている。「河内国神別」には「天孫」の「身人部連」がおり、「火明命之後也」ともある。これらを総合すると、六人部氏は、火明命を祖先と伝える尾張氏の同系氏族ということになる。ただし、「和泉国諸蕃」に「百済公同祖、酒王之後也」とある「六人部連」も存在する。
『続日本紀』には、天平勝宝7歳(755年)正月に外正六位下から外従五位下、天平宝字元年(757年)9月にさらに外従五位上に昇叙された六人部薬(久須利)のことが載せられてあり[2]、そのほか、天平宝字8年(764年)正月の六人部鯖麻呂[3]、神護景雲3年(769年)10月などの六人部広道[4]の記事が見える。
『続日本後紀』天長10年(823年)2月に、右京の人音博士六人部連門継ら5人の兄弟姉妹に、高貞宿禰の賜姓を賜ったことが記されている[5]。
また、美濃国厚美郡(現在の岐阜市・各務原市の一部)の人であった六人部永貞ら3人は、貞観4年(862年)5月に、善淵朝臣の氏姓を賜っている[6]。
美濃国には臣姓の六人部臣氏も存在し、天平20年(748年)4月25日付けの「写経所解」に、六人部臣身万呂・六人部臣山村の名が見える[7]。
脚注
- 『国史大辞典 13』
- 『続日本紀』天平勝宝7歳正月14日条、天平宝字元年9月28日条
- 『続日本紀』天平宝字8年正月7日条
- 『続日本紀』神護景雲3年10月30日条
- 『続日本後紀』天長10年2月癸酉条。なお、この年のこの月の係日には不審なものがあり、何日と特定することができない
- 『日本三代実録』貞観4年5月13日条
- 『大日本古文書』巻三 - 132頁、巻十 - 226頁
- 鶴林寺公式ホームページ (2019年10月31日). “鶴林寺の歴史”. 鶴林寺公式ホームページ. 2023年11月24日閲覧。