判事 (律令制)
概要
被疑者を尋問する解部(ときべ)の提出した鞫状(調書)をもとに、刑部卿とともに裁判の審理にあたり、適用する律令の条文を確定して判決案を定めた。大判事は定員2人で正五位下相当。中判事は定員4人で正六位下相当。少判事は定員4人で従六位下相当[1]。
また、大宰府にも大判事1人(従六位下相当)・少判事一人(正七位上相当)があった[2]。
多く明法家が任命され[3]、一部、文章得業生などを任用することもあった。
大宝令以前にも刑部省(刑官)の判事があったことが、『日本書紀』からは窺うことができる。巻第二十六、斉明天皇4年11月には、
他日(あたしひ)に、有間皇子(ありまのみこ)、一(ひとり)の判事(ことわるつかさ)と、謀反(みことかたぶけむとはか)る時に
とあり[4]、大化改新の官制に刑部尚書の官があったので、判事も設置されたものと見られる。 『書紀』巻第三十によると、持統天皇3年(689年)には、竹田王・土師根麻呂・大宅麻呂・藤原不比等・当麻桜井・穂積山守・中臣意美麻呂・巨勢多益須・大神安麻呂が判事に任命されている[5]。
「判事」は平安中期以降は、中原氏・坂上氏の両家が世襲しており[6]、寛平8年(896年)には令制判事定員の削減が行われている。
脚注
- 『職員令』30条「刑部省条」、『官位令』10条「正五位条」、同12条「正六位条」、同13条「従六位条」
- 『職員令』69条「大宰府条」、『官位令』13条「従六位条」、同14条「正七位条」
- 『岩波日本史辞典』p953
- 『日本書紀』斉明天皇4年11月条或本
- 『日本書紀』持統天皇3年2月26日条
- 『角川第二版日本史辞典』p787
参考文献
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