劉休範
生涯
孝建3年(456年)、順陽王に封じられ、後に桂陽王に改封された。大明3年(459年)、江州刺史となった。明帝が劉子勛の乱を平定すると、南徐州刺史とされたが再び江州刺史とされた。
明帝により兄弟が殺されていたが、凡庸だった休範だけは粛清を免れた。泰予元年(472年)に明帝が崩御すると、遺詔により司空となる。明帝の息子とされる蒼梧王劉昱が即位したが、劉昱も叔父ら諸王十数人を殺したために叛逆を企て、元徽2年(474年)5月に尋陽で挙兵した。休範の軍は建康に迫ったが[1]、わずか10日ぶりに右衛将軍の蕭道成に敗れて殺された[2][3][4]。享年27。
脚注
- 駒田 & 常石 1997, p. 176.
- 駒田 & 常石 1997, p. 177.
- 川本 2005, p. 150.
- 『宋書』巻9, 後廃帝紀 元徽二年五月壬辰条による。
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