劉煕 (徴士)
生涯
後漢の安南太守[1]。博覧にして多識で名を成し、朝廷から辟されたが行かず、交州に避難したため人々から「徴士」と呼ばれた。蒼梧郡、南海郡を行き来して生徒は数百人おり、有名な弟子に許慈、薛綜がいた。また程秉が交州に避難してきた際は、彼と大いに論じ合った[2]。建安の末年(220年前後)に交州で亡くなり、崇山(武陵郡)に葬られた[3]。
脚注
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