劉貴

劉 貴(りゅう き、? - 539年)は、中国北魏末から東魏にかけての軍人。本貫秀容郡陽曲県[1][2][3]

経歴

劉乾の子として生まれた[1][2][3]懐朔鎮にあって高歓と友情を結んだ[4][5][6]。のちに爾朱栄の下で騎兵参軍をつとめた。建義元年(528年)、河陰の変の計画策定に参与し、敷城県伯に封じられた。左将軍・太中大夫となり、間もなく公に進んだ。爾朱栄の信任あつく、撫軍将軍の号を加えられた。永安3年(530年)、涼州刺史となった[7][2][3]

長広王元曄が即位し、爾朱世隆が政権を握ると、劉貴は征南将軍・金紫光禄大夫・尚書左僕射・西道行台となり、行台の元顕恭と正平で対峙した。劉貴は元顕恭を撃破して、元顕恭や裴儁らを捕らえた。晋州刺史に任じられた。普泰元年(531年)、行汾州事に転じた。高歓が反爾朱氏の兵を起こすと、劉貴は城を棄ててにおもむき、高歓に帰順した。太昌元年(532年)、本官のまま肆州刺史に任ぜられ、行建州事に転じた。天平元年(534年)、陝州刺史となった[8][2][3]

天平4年(537年)、御史中尉・肆州大中正となった。この年、行台僕射を加えられ、侯景高昂らとともに独孤信洛陽で攻撃した。興和元年(539年)11月、死去した。都督冀定并殷瀛五州諸軍事・太保太尉公録尚書事冀州刺史の位を追贈され、を忠武といった[8][9][3]

子に劉元孫・劉洪徽がいた。劉元孫は員外郎・肆州中正となり、早逝した。劉洪徽が後を嗣ぎ、仮の儀同三司となって、奏門下事をつとめた[10][11][3]

脚注

  1. 氣賀澤 2021, p. 252.
  2. 北斉書 1972, p. 250.
  3. 北史 1974, p. 1904.
  4. 氣賀澤 2021, p. 12.
  5. 北斉書 1972, p. 2.
  6. 北史 1974, p. 210.
  7. 氣賀澤 2021, pp. 252–253.
  8. 氣賀澤 2021, p. 253.
  9. 北斉書 1972, pp. 250–251.
  10. 氣賀澤 2021, p. 254.
  11. 北斉書 1972, p. 251.

伝記資料

参考文献

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
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