北条政顕
北条 政顕(ほうじょう まさあき)は、鎌倉時代後・末期の武将・鎮西探題。北条氏の一門。父は金沢流北条実政で、金沢政顕とも称される。北条貞顕の従兄にあたる。
凡例 北条政顕 | |
|---|---|
| 時代 | 鎌倉時代後期・末期 |
| 生誕 | 文永6年(1269年)[1][2] |
| 死没 | 不詳[1][2](正和5年(1316年)?) |
| 改名 | 政顕 |
| 別名 | 顕道、金沢政顕 |
| 官位 | 掃部助、上総介 |
| 幕府 |
鎌倉幕府 鎮西探題、肥前・肥後・豊前守護(兼任) |
| 主君 | 将軍:惟康親王→久明親王→守邦親王 |
| 氏族 | 金沢流北条氏 |
| 父母 | 父:北条実政、母:千葉氏の娘? |
| 兄弟 | 政顕、義政、政基、岩難手殿 |
| 妻 | 不詳 |
| 子 |
種時、家政、顕茂、顕義、師顕、時継、 規矩高政、糸田貞義、娘(安達時顕室) |
生涯
文永6年(1269年)[1][2]、北条(金沢)実政の子として生まれる。正応5年(1292年)ごろ、肥後守護となったという[3][4]。
正安3年(1301年)9月、父・実政の出家に伴い、家督と探題職・守護職を譲られる[5]。その後、15年ほどに亘って在任し、相論に対するものをはじめとした85通の裁許状や鎮西下知状[6]を発給している[1]。
その間、嘉元2年(1304年)ごろには上総介となっている[3]ようだが、翌嘉元3年(1305年)から延慶2年(1309年)までの間は北条宗方の陰謀事件(嘉元の乱)との関連により裁許状を発給していない[1]。
正和5年(1316年)には鎮西探題を辞任。その後、次の阿蘇随時が探題に就任するまで約1年間、嫡子の種時(たねとき)が代理で探題職を務めている[7]ことから、同年に没したとも考えられる。
脚注・出典
参考文献・関連史料
- 書籍
- 安田元久『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)
- 西ヶ谷恭弘『国別 守護・戦国大名事典』(東京堂出版、1998年)
- 瀬野精一郎「鎮西探題と北条氏」『金沢文庫研究』第25巻第2号 1979年
- 瀬野精一郎『鎮西御家人の研究』吉川弘文館 1975年
- 竹内理三『鎌倉遺文』東京堂出版
- 史料
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