千歳橋 (松本市)
概要
女鳥羽川の本来の流路は現在とは違っていた。それを1550年の小笠原長時との戦いに勝ちこの地を支配するようになった武田氏[1]が深志城(松本城の旧称)を整備する際に、城の外堀の機能を持たせるために流路を変更したという。江戸時代には、川の北側は武家地、南側は町人地であるとともに、合流した野麦街道と善光寺街道がさらに北に向かうために武家地には入れず迂回する地点に近い[2]という枢要な橋であった。
元は大手橋と言う、木製の橋であった。木製ゆえ度々流されたが、1876年(明治9年)になって取壊した大手門門台の石を利用した石橋に替えられた。 石製なので、流される事なく千年も万年もと願って千歳橋となった。
この橋の先には大手門があり、町人は通れなかった。町人がこの橋を渡り大名町通りに往来が出来るようになるのは、1870年(明治3年)3月からである。橋の北詰には松本市の道路元標があり、北側のクランクは大手門の枡形の名残である。南側には1889年(明治22年)に移された、高札場があった。
千歳橋の写真画像
東北側から南西側を望んだところ。向かいの茶色の建物は時計博物館である。2012年3月21日撮影
橋の北東側河畔にある花いっぱい運動発祥の記念碑。2012年3月21日撮影
脚注
- 『松本まるごと博物館 ガイドブック』松本市立博物館、2008年3月、61ページ
- 『松本まるごと博物館 ガイドブック』付録地図
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