厙狄迴洛
経歴
はじめ爾朱栄に仕えて統軍となった。永安元年(528年)、孝荘帝の擁立に協力し、別将となり、毋極県伯の爵位を受けた。葛栄を討ち、都督に転じた。永安3年(530年)、爾朱栄が殺害されると、迴洛は爾朱兆に属した。普泰元年(531年)、高歓が信都で起兵すると、迴洛は部衆を率いて高歓に帰順した。中興2年(532年)、爾朱氏を韓陵で討ち、軍功により都督となり、後将軍・太中大夫の位を加えられ、順陽県子に封じられた。右廂都督に転じた。山胡を討って、先鋒をつとめ、朔州刺史に任じられた。元象元年(538年)、宇文泰を河陽で破り、夏州刺史に転じた。武定元年(543年)、邙山の戦いでは奮戦して功績を挙げた。武定6年(548年)、高澄の下で潁川を平定した。北斉の天保元年(550年)、迴洛は建州刺史に任じられた。皇建元年(560年)、順陽郡王に封じられた。大寧元年(561年)、朔州刺史に転出し、博陵郡を食邑とした[5][4]。562年(大寧2年)、太尉公・太子太師となった。3月、鄴で死去した。享年は57[6]。使持節・都督定瀛済恒朔雲六州諸軍事・定州刺史の位を追贈された[7][4]。
脚注
伝記資料
参考文献
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