唐橋豊熈
人物
天明3年(1783年)2月2日に従五位下に叙爵されている。同4年(1784年)4月4日、秋月藩の黒田氏を継ぐために位記を返上し、江戸の秋月藩邸へと下った。しかし、後に黒田長舒が黒田氏を継いだため、豊熙は江戸から京都へと引き返した。秋月藩は、謝罪の意として豊熙の存命中は合力米を贈り続けた[1]。
京都に帰った豊熙は大内小路民部と名を改め、大原重度の娘・いそ(伊楚子)を妻に迎えた。いそとの間には娘が生まれたが、病弱で縁談がなかなかまとまらなかったという[1]。
豊熙の死後、いそと娘の生活は困窮を極めたため、いそは豊熙の援助(合力米)を引き続き贈ってほしいと秋月藩に懇願している[1]。
系譜
- 父:唐橋在家(1729-1791)
- 母:不詳
- 妻:いそ - 大原重度の娘
- 女子
脚注
注釈
出典
- 『朝廷をとりまく人びと』高埜利彦編(吉川弘文館, 2007年)
参考文献
- 『朝廷をとりまく人びと』高埜利彦編(吉川弘文館, 2007年)
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