喜多川宗典
初代宗典
生没年不明、京八幡町の出身と言われ、秀典(ひでつね)と称していたと伝えられる[1]。彦根藩士川喜多氏に依ったことから喜多川を姓とし、宗典と名乗った[2]。彦根城下中藪に住み、目抜き・縁頭・鍔・小刀等に花鳥・風景・合戦図などを高彫り象嵌や色絵の技法を駆使して、にぎやかに表す彦根彫りと呼ばれる技法を確立した[2][3]。
二代宗典
生没年不明、喜多とも言い別に藻柄子と号す[2][4]。図案はほぼ父と同じで、高彫り象嵌や色絵や肉彫り地透かしに象嵌を施した「道釈列仙遊戯図」・「軍士の交戦図」を多くの優品を残した。贋作を多く作られるほど、宗典の作品は高く評価された[5][6]。
脚注
- 「大日本人名辭書」 「喜多川秀典」の項(經濟雜誌社 1896年)
- 「近江人物志」(滋賀県教育会 文泉堂 1918年)
- 「朝日日本歴史人物事典」(朝日新聞社 1994年)
- 「大日本人名辭書」 「喜多川宗典」の項(經濟雜誌社 1896年)
- 「日本装剣金工史」(桑原羊次郎 荻原星文館 1941年)
- 「鐔」(小笠原信夫 保育社 1975年)
代表作
- 「熊坂義経透鐔」・「仙人透鐔」(いずれも東京国立博物館蔵)
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