堀内正和
経歴・人物
若年期
京都市の生まれ。幼年期より抽象的な彫刻作品に興味を持ち、その作品を制作し続けていた。後に上京し、1929年(昭和4年)に開催された第16回二科展において自身の作品を入選された事がきっかけで、当時通学していた東京高等工芸学校を中退した。その後青山学院大学やアテネ・フランセで彫刻学の教鞭を執る。
彫刻家として
後に番衆技塾で藤川勇造の門人となるが、制作中に発生した第二次世界大戦における体制を批判したことによって、制作を一時中断する。親交が深かった辻晉堂との書翰には、橋本平八の彫刻造形や彼の「日本彫刻、西洋彫刻の異」についての考えに関心を持つ様子がうかがえる[1]。1938年(昭和13年)から堀内はアテネ・フランセに通いはじめ、フランス語、ラテン語、ギリシャ語の習得に熱意を向ける一方で、彫刻理論的な方法で、日本と西洋、双方の古代美術への理解を深めようとしていた[1]。
1947年(昭和22年)若年期に二科展に入選されたことの名誉で二科会の会員に採用された。1950年(昭和25年)辻の誘いを受けて、京都市立美術専門学校に赴任、作家としての充実よりも「よき教師」として大学教育を作り上げたいという強い意思のもと、彫刻分野に抽象美術教育を根付かせようと試みた[1]。制作面では、鉄を溶かした構造の抽象的な作品を多く制作した。これにより、日本だけでなく海外でも評判となり、1957年(昭和32年)に開催されたブラジルのサンパウロでのビエンナーレに出品し、一躍有名な彫刻家となった。後にインドのトリエンナーレにも出品する。
受賞歴
主な作品
- 『首』- この作品で二科展に入選。
- 『海の風』- 高村光太郎賞受賞。
- 『立方体の二等分』- 第1回現代国際彫刻展受賞。
- 『鳩』 - 仏像とオリエントの女神が融合しており、直立の立ち姿によって像の正面性と垂直性を強調している点や、足に纏い付く衣紋の表現に特徴が見られ、この特徴は橋本平八に共通点があると指摘される[1]。
著書
脚注
- 菊川亜騎「戦時下の堀内正和に関する研究-書簡に基づく辻晉堂との交流から-」『京都市立芸術大学美術学部研究紀要』第62巻、京都市立芸術大学美術学部、2018年3月、87-93頁。
出典
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