大内義尊

大内 義尊(おおうち よしたか)は、戦国時代の人物。大内義隆の嫡子。母はおさいの方(小槻伊治の娘)。弟に大内義教

 
凡例
大内 義尊
時代 戦国時代
生誕 天文14年(1545年
死没 天文20年9月2日1551年10月1日
改名 亀童丸(幼名)→義尊
戒名 幻性院真海珠珍[1]、珠珍鳳毛[2]
官位 従五位下周防介
氏族 大内氏
父母 父:大内義隆、母:小槻伊治の娘・おさいの方
兄弟 珠光義尊義教大石義胤

生涯

大内義隆の嫡男で、義隆が39歳の時に生まれた。母は義隆の2番目の正室であるおさいであるが[3]、実は義隆の実子かどうかを疑われていたという[4]

天文16年(1547年2月17日には3歳にして従五位下 周防介に叙任される[5][1][6]。新介と称した[1]陶晴賢が義隆に対する謀反の計画を企図した際、最初は義隆の隠居と義尊の新当主擁立が決められていたが、この義尊の実子か否かの問題のために晴賢は計画を変更して義隆・義尊殺害に変更したとされている[4]

天文20年(1551年8月29日、晴賢が謀反を起こすと、父の義隆や公家衆とともに山口より脱出し、長門大寧寺へ逃れた。この時、義尊は幼少のため従者(同朋衆の龍阿)に背負われていたという[5]。しかし幼児ながらも謀反に動揺せず立派な態度を見せたと伝わる[註 1]

天文20年(1551年9月1日、義隆は大寧寺において自害。義尊も小幡義実に連れられて逃亡を図るが同日に捕らえられた[5]。この時、陶隆房は助命すると述べて捕虜にしたのだが[7]、翌日には約束を反故にされて義尊は殺害された[5][7]大寧寺の変)。享年7歳[8][4][9][10][11][6][註 2][註 3]。殺害された場所は、俵山温泉の現在麻羅観音がある奥とされる[12]。また翌年大内義尊の弟の大内歓寿丸も捕らえられ、同じ場所で殺されている[12]

関連作品

テレビドラマ

脚注

注釈

    1. 『大内義隆記』では「御曹子何の心もましまさず」とある。
    2. 『大内系図』には12歳とある。
    3. 『大寧寺過去帳』には「忌日一日」とある。

      出典

      1. 『大内系図』
      2. 『大寧寺過去帳』
      3. 相良家文書
      4. 大内義隆記
      5. 福尾猛市郎 1989, p. 68.
      6. 歴名土代
      7. 福尾猛市郎 1989, p. 174.
      8. 『言延覚書』
      9. 『大内義隆記』異本
      10. 『中国治乱記』
      11. 『房顕記』
      12. 長門市、俵山温泉観光協会、俵山下安田区住民、俵山旅館組合、俵山温泉旅館組合、俵山温泉合名会社による昭和59年に合同建立された麻羅観音の説明板の内容より(現地)

      参考文献

      書籍
      • 近藤清石『大内氏實録』中元壮作、宮川臣吉、山口県山口町、1885年10月28日。 NCID BA33800345オープンアクセスNDLJP:780384
      • 福尾猛市郎 著、日本歴史学会 編『大内義隆』吉川弘文館〈人物叢書 新装版〉、1989年10月。ISBN 4642051732。 NCID BN03823762全国書誌番号:89061490
      史料
      • 『大内系図』
      • 『大内義隆記』
      • 『言延覚書』
      • 『相良家文書』
      • 『大寧寺過去帳』
      • 『中国治乱記』
      • 『房顕記』
      • 歴名土代

      関連項目

      外部リンク

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