大矢野松右衛門
概要
『天草騒動』などの実録物によると、本名を大矢野作左衛門といい、父は本多忠朝の家臣・大矢作左衛門で、自身も主君・本多忠朝の剣術指南役であったという。また、大坂冬の陣にて父が戦死したため本多家から退去し、忠朝の怒りをおそれ古里の天草へ逃れて帰農したという。
のち島原の乱の首謀者のひとりとして一揆勢の指揮をとり、原城籠城戦の際は浮武者頭として、山善左衛門とともに遊軍2000人を率いた[1]。最期は詳細不明だが、『天草騒動』によると、原城落城時に長岡帯刀(細川藩家老・米田是季の子)と一騎討ちの末、戦死したという。
脚注
- 『耶蘇天誅記』『寛永平塞録』等多数の史料にそのように記されている。
出典
- 『天草騒動』(1692年、田丸具房(常山)著)
- 『西海の乱・天草民衆運動史研究(下巻)』(西海文化史研究所、1995年、倉田文史/著)
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