奥村五百子
経歴
肥前国唐津出身[1]。父は真宗大谷派釜山海高徳寺の住職・奥村了寛で、父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装の姿で長州藩への密使を務めたこともあった。同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐが死別、続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚するが離婚する(征韓論を巡る意見対立が理由とされる)。
離婚後、唐津開港に奔走する傍ら朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州にて実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けた[2]。北清事変後の現地視察をきっかけに女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設する。以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問に努めた。
関連項目
参考文献
外部リンク
- 近代日本人の肖像「奥村五百子」 (国立国会図書館WEBサイト)
- 晩年の浅子 (大同生命特設WEBサイト) - 明治・大正期の女性実業家・広岡浅子との交友関係について紹介
- 唐津の明治維新と近代化 奥村五百子、pp. 30–31、唐津市教育委員会、2018
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