奥重政

奥 重政(おく しげまさ)は、戦国時代から江戸時代初めにかけての武士。津田流・自由斎流の砲術家[5]

 
凡例
奥 重政
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長17年(1612年
改名 俊重、重政[注釈 1]
別名 弥太郎、弥兵衛尉[注釈 1]
墓所 修禅尼寺(和歌山県紀の川市
氏族 奥氏
父母 父:奥義弘、母:津田算長の娘
兄弟 重政、範重、将監、利重[3]
小嶋与三の娘[4]
重吉、重俊、快賢、吉政[3]

生涯

奥氏は紀伊国那賀郡荒川荘(安楽川荘、現在の和歌山県紀の川市桃山町・那賀郡粉河町[6])を拠点とした一族[7]15世紀初め頃には同荘の公文を務めていた[8][7]。重政の父・義弘は小倉荘(岩出市和歌山市[9])の津田算長の娘(津田算正の妹)を妻にしたとみられ、義弘は岳父から砲術を習ったとされている[4][注釈 2]

永禄3年(1560年)、重政は奥義弘の嫡男として誕生した[1]。「奥家譜」によると、天正期(15731592年)に織田信長羽柴秀吉と戦ったといい[10]、「奥家系図抜書」や『紀伊続風土記』には、織田信長が高野山を攻めた際に、父・義弘と共に高野山に味方したと記されている[11][12]。天正18年(1590年)に家督を継ぎ、文禄5年(1596年)、氏家行広に鉄砲組組頭として仕えた[10]慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、浪人となった[10]

重政は津田算正とその弟の自由斎から砲術を学び、数年で奥旨を窮めたという[1][注釈 3]。『本朝武芸小伝』には、重政は自由斎の数少ない門人の一人で、砲術の奥義を神のように得たとあり、『武術流祖録』にも、重政は津田流の数少ない門人の中で傑出していたとある[13][14]。また、津田流の砲術伝書のうち、「津田算長 - 算正 - 自由斎 - 重長」と伝えるものには重政の名がなく、自由斎から奥弥兵衛(重政)に継承したとするものには算正の名が見えないことから、重政は主に自由斎から学んだと考えられる[15]

重政は後の紀州藩主・浅野幸長に砲術を伝え、慶長4年(1599年)に自由斎流の秘伝を授けている[16]。幸長以外の大名では谷衛友にも砲術を伝授した[17]。このほか、美濃国多羅城主の関一政の家臣だった鹿伏兎盛良が門弟にいる[18]。盛良は砲術の蘊蓄を極めて奥姓を許されたが、その後外科医学の道に進み、江戸幕府に直仕した[18][19]

慶長6年(1601年)、浅野幸長が甲斐から紀伊に転封された[10]。重政は砲術を伝授したものの、幸長とは主従関係になかったとみられ[16]、那賀郡野上荘原野村海南市)に隠棲している[10]。慶長17年(1612年)、重政は死去し、現在の紀の川市桃山町にある修禅尼寺に葬られた[10]

重政の嫡男・重吉は、浅野幸長が甲斐にいた頃に浅野家に仕官した[20]。浅野家の「旧臣録」では、慶長5年(1600年)のこととされる[21]。当初の石高は300石で、鉄砲組頭として従軍した大坂冬の陣で功を立て、800石に加増された[21]元和5年(1619年)に浅野長晟安芸国に移されるとそれに従い、安芸で砲術を広めたという[21]。江戸時代中期から幕末にかけての安芸の砲術家として奥猛雅・満雅・典雅・邦雅の一族が知られるが[21][22]、重吉の子孫と考えられる[21]。また、重政の二男・重俊は紀伊に残り、紀州奥家を存続させた[21]

系譜

  • 父:奥義弘(1532–1590[4]) - 奥延之の嫡男[4]
  • 母:津田算長の娘
  • 正室:小嶋与三の娘 - 与三は山口荘(和歌山市[23])の住人[4]
    • 長男:奥重吉(?–1642[24]) - 浅野家臣。芸州奥家の祖とされる[21]通称は清蔵、弥兵衛[24]
    • 二男:奥重俊(1594–1663[21]) - 紀伊に住む。通称は源太(郎)[21]。大坂の陣の際、重政の叔父(延之の四男)の杢之助政友が大坂方にいたが、重俊は豊臣秀頼からの誘いを断ったという[25]。この後、慶長20年(1615年)に政友は戦死している[1]。なお、政友を重俊の弟とし、兄弟そろって大坂籠城に加わったという説もある[26]
    • 三男:快賢 - 高野山の僧[21]
    • 四男:奥吉政 - 浅野家臣[21]。通称、仙兵衛[21]文化初年にまとめられた「旧臣録」では重政の二男とされる[21][27]

脚注

注釈

  1. 「奥家譜」によると、初め弥太郎俊重、後に弥兵衛尉重政と名乗ったという[1]。文禄3年(1594年)付の奥俊重作相売渡状(「奥家文書」)に「奥弥兵衛俊重」という署名があり[2]、弥太郎俊重、弥兵衛俊重、弥兵衛重政という変遷が考えられる[1]
  2. 「奥家譜」などには、義弘は津田算正の娘を娶り「岳父算正」から砲術を学んだとあるが、天文元年(1532年)生まれの義弘が享禄2年(1529年)生まれの算正から娘を娶るとは考えにくい[4]。「津田家系譜」には津田算長の娘で算正の妹が「奥弥兵衛室」になったと記されているが、この弥兵衛は義弘(市郎左衛門尉、出羽守)の誤りと考えられ、義弘は算長の娘を妻にしたと推測される[4]
  3. 「奥家譜」には、天正3年(1575年)に「外祖父津田監物算正及自由斎算長」から砲術を学んだとあるが、重政の外祖父である算長は永禄10年(1567年)に死去したとされることから、重政に砲術を教えたのは伯父(または叔父)に当たる津田算正と自由斎であると考えられる[1]

出典

  1. 太田 2010, p. 32.
  2. 和歌山県史編さん委員会 1975, p. 791; 太田 2010, p. 32.
  3. 太田 2010, p. 34.
  4. 太田 2010, p. 31.
  5. 太田 2010, p. 36.
  6. 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1985, p. 93.
  7. 太田 2010, pp. 30–31.
  8. 応永20年(1413年)5月22日付安楽川荘公事銭支配状写 (和歌山県史編さん委員会 1975, p. 785)
  9. 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1985, p. 248.
  10. 太田 2010, p. 33.
  11. 和歌山県史編さん委員会 1975, pp. 795–796.
  12. 太田亮姓氏家系大辞典第一巻・ア―カ』姓氏家系大辞典刊行会、1934年、898頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/523
  13. 国書刊行会 編『武術叢書国書刊行会、1915年、81、154頁。全国書誌番号:43014303https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945805/50
  14. 太田 2005, p. 12.
  15. 太田 2005, pp. 14–15; 太田 2010, p. 32.
  16. 松平 1977, p. 33; 太田 2010, p. 33.
  17. 松平 1977, pp. 33–35.
  18. 松平 1977, p. 36.
  19. 寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年、630頁。全国書誌番号:21329093https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/324
  20. 太田 2010, pp. 33, 35.
  21. 太田 2010, p. 35.
  22. 広島市役所 編『新修広島市史 第四巻 文化風俗史編』広島市役所、1958年、292頁。全国書誌番号:49001367
  23. 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1985, p. 1042.
  24. 太田 2010, pp. 33–35.
  25. 太田 2010, pp. 32, 35.
  26. 柏木輝久『大坂の陣豊臣方人物事典』北川央 監修(2版)、宮帯出版社、2018年、227–228頁。ISBN 978-4-8016-0007-2。
  27. 林保登 編『芸藩輯要 附藩士家系名鑑』入玄堂、1933年、第3編25、33頁。全国書誌番号:46085719

参考文献

  • 太田宏一「津田流砲術と奥弥兵衛について」『和歌山市立博物館研究紀要』第19号、2005年。
  • 太田宏一「津田流砲術と奥弥兵衛(続)」『和歌山市立博物館研究紀要』第25号、2010年。
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』角川書店、1985年。ISBN 4-04-001300-X。
  • 松平年一「自由斎流の鉄砲師奥弥兵衛」『日本歴史』第354号、1977年。
  • 和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史 中世史料 一』和歌山県、1975年。全国書誌番号:73021652
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