孝懿皇后 (金)
生涯
徒単貞の娘[1]。落ち着いた性格で、やり手の女性だったという。
徒単貞は迪古乃(後の海陵王)の同母妹と結婚し、熙宗を弑逆して海陵王を擁立する企てに加担した。世宗が即位すると、徒単貞は世宗に謁見し、帰順した。世宗は満足した。
大定4年(1164年)、皇太子允恭(後年、顕宗の廟号を追贈された)の妃に選ばれた。徒単氏自身は家族誅滅の憂き目に遭うことをおそれ、ときどきに父に諫言した。大定22年(1182年)11月丙子、熙宗殺害の責を問われ、徒単貞夫婦は2人の男子と共に処刑されたが、太子妃の位は変わらなかった。
允恭は父帝に先立ち大定25年(1185年)に病死したが、4年後に章宗が即位すると徒単氏は皇太后となり、隆慶宮と称した。老荘を好み、清らかで気持ちは安らかであった。
子女
- 完顔麻達葛(章宗)
伝記資料
- 『金史』
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