孫奇逢
生涯
篤行で名をよく知られ、1600年(万暦28年)に郷試に合格し挙人となり、その頃から東林党の党人との間に親密な交流を持った。その後両親を亡くし6年間服喪し、朝廷に召されても応じず、貧困に甘んじて暮らしていた。1633年(崇禎6年)に清兵が容城の県城を包囲した際にも民衆とともに守備し、その後は易州五公山に転居している。清代以降も朝廷の招聘に応じず、明代より合計11回も徴命されたことから「孫徴君」と称された。1652年(順治9年)に河南省衛輝府輝県蘇門山中にある夏峯に居を定め、25年にわたり講学に専念した。1675年(康熙14年)に享年90で没する。1828年(道光8年)に孔子廟に祀られた。
学問と著作
陸象山と王陽明に基本を置くが、朱子学も採用していた。盛名はあったが嫉視を招くことなく、李顒・黄宗羲と同格に置かれ、「明末清初の三大儒」と評された。現代中国の評論家である銭鍾書は、孫奇逢の特筆すべき点は「講学では身体力行(実行)を重んじたこと、明末の乱世に数百家を率いて防衛し郷里を保全したこと、門人を多く教育し人才を輩出したこと」であるという。
参考文献
- 『続表忠記』2
- 『小腆紀伝』53
- 『明儒学案』57
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