寺内寿太郎

寺内 寿太郎(てらうち じゅたろう 1900年? - 没年不明)は、慶応義塾大学初の箱根駅伝ランナー。昭和初期の詩人川柳にも才能を発揮し、当時流行の探偵小説にも凝ったことがある。

寺内てらうち 寿太郎じゅたろう
誕生 1909年
不詳
死没 不詳
職業 詩人
言語 日本語
国籍 日本における郵船商船規則の旗 日本
最終学歴 慶應義塾大学理財科
親族 山岸外史(いとこ)
ウィキポータル 文学

経歴・人物

評論家山岸外史のいとこ。幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育つ。伯父の世話で慶應義塾大学理財科(現在の経済学部)を卒業して会社勤めをしていたが、不遇を託ち、家出すること数回。伊豆天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともあるが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻された。なお、慶大時代は競走部(陸上部に相当)に所属し、箱根駅伝にも3回(1920年〈第1回大会でもある[1]。区間4位〔最下位〕〉,1921年〈10区。区間記録不明〔完走しているが記録が散佚〕〉,1923年〈10区。区間7位〔9チーム中〕〉)出場した[2]

たびたび職業を変え、都落ちをしてからは岩手県宮古で4年間、町会(あるいは漁業組合だったとも言われる)で書記として生計を立てていた。

極端な寡作家ながら、宮古時代に「遺書」(かきおき)と題する一行詩(「生れてすみません」)を含む7〜8作の詩稿を完成して帰京。この「遺書」の詩稿は1936年昭和11年)、山岸を通じて太宰治の目にとまり、太宰の短篇「二十世紀旗手」の冒頭において、エピグラフ「生れて、すみません。」として剽窃されるに至った。[3][4]

寺内は以前から太宰の読者だったが、1937年昭和12年)ごろ、「二十世紀旗手」を読んで山岸のもとに駆けつけるなり、顔面蒼白となって「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた」と叫び、途方に暮れたという。山岸からこのことを伝えられた太宰は、「あの句は山岸君のかと錯覚するようになっていたのですよ」「わるいことをしたな」と狼狽した。

このあと寺内は文学に挫折し、憂鬱症に陥り、家出を繰り返したのち、やがて失踪してしまった。敗戦後まもなく、品川駅で目撃されたのが最後の姿だった。

また、佐藤春夫の小説「芥川賞-憤怒こそ愛の極点(太宰治)」(『改造』1936年11月、のち「或る文学青年像」と改題)に寺内清の名で登場している。

駅伝成績

大会 所属 区間 距離 順位 記録 備考
1920 第1回東京箱根間往復大学駅伝競走 慶應義塾大学 1区 区間4位 1時間30分30秒
1921 第2回東京箱根間往復大学駅伝競走 慶應義塾大学 10区 9区以降は区間記録が不明
1923 第4回東京箱根間往復大学駅伝競走 慶應義塾大学 10区 区間7位 1時間29分59秒

脚注

  1. 1区を走った。即ち、慶大の選手で最初に箱根駅伝で走った人物でもある。
  2. 選手詳細情報・寺内寿太郎 箱根駅伝公式サイト
  3. 二十世紀旗手――(生れて、すみません。)”. 青空文庫. 2015年3月14日閲覧。
  4. 竹山 (2002/04). 現代日本文学「盗作疑惑」の研究―「禁断の木の実」を食べた文豪たち. 日本: PHP研究所. ISBN 978-4569621500

参考文献

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