山口教継

山口 教継(やまぐち のりつぐ)は、戦国時代武将織田氏今川氏の家臣。尾張国鳴海城主。

 
凡例
山口 教継
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄3年(1560年)?
官位 左馬助
主君 織田信秀今川義元
氏族 山口氏
父母 父:山口教房
教吉

生涯

山口氏周防国大内氏の一族と言われる。桜中村城主・山口教房の子として誕生。

尾張笠寺付近の土豪であったとみられ、永正6年12月20日1510年1月29日)付けの文書で笠寺の笠覆寺に貢納していたことが確認できる[1]織田信秀に従い、小豆坂の戦いでは当時駿河国遠江国三河国を勢力下に収める大名であった今川義元配下の軍勢と戦って戦功を挙げる[2]。しかし、年次は不明ながら、信秀と義元を仲介して両者を一時的に和睦に導いてもいる[3]

信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張南東部の備えとなっていたが、信秀の死後[4]、子の信長の代になると、織田氏から離反して今川氏に寝返り、鳴海城を子・教吉に守らせ、笠寺に砦を構えて岡部元信などの駿河勢を引き入れて、自らは中村に立て籠もった。教吉はここで出陣してきた信長と戦い、引き分けている(赤塚の戦い[5]

教継は織田方の大高城沓掛城を調略を用い奪取したが、その後駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられた[6]。山口父子の殺害は信長の調略ともされる[7]

脚注

  1. 『新編東浦町誌』 「年中寺納所年貢書上」 (笠覆寺所蔵)
  2. 太田牛一信長公記』 巻首 「あづき坂合戦の事」
  3. 豊明市史』 「妙源寺文書」
  4. 小和田哲男は、教継が信秀在世中に既に今川氏と誼を通じていた可能性を指摘している(小和田哲男 『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』 学研学研M文庫)、2000年平成12年)、66頁、ISBN 4059010014)。
  5. 太田牛一 『信長公記』 巻首 「三の山赤塚合戦の事」
  6. 太田牛一 『信長公記』 巻首 「おどり御張行の事」
  7. 小瀬甫庵『太閤記』1626年。

関連項目

This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.