山梨軍縮
概要
第一次世界大戦後、世界的に軍縮が大勢となって海軍力の軍縮が主要国で協議され、ワシントン海軍軍縮条約において一応成功した形になった。
この結果、アメリカ合衆国との衝突の可能性も無くなり、一方ロシアについても1917年に起きたロシア革命の結果、国内の政治的混乱に未だ収拾のめどはついていない状態であったため、日本に直接大きな脅威を与える国は当面の間は見当たらない状況になった。
そうした状況下で海軍が大規模な軍縮に着手している以上、陸軍としても議会の軍縮要求にまったく耳を貸さないでいることは許されなくなる。
そこで時の陸軍大臣・山梨半造はついに軍備の整理・縮小に着手することになり、1922年8月に第一次軍備整理、翌1923年4月の第二次軍備整理と2度にわたってこれを実施した。
第一次軍備整理
1922年7月、「大正十一年軍備整備要領」が施行され約60,000人の将兵、13,000頭の軍馬(約5個師団相当)の整理と、その代償として新規予算約9,000万円を要求して取得した。山梨陸相の企図は緊縮財政に基づく軍事費の削減をもって平時兵力の削減と新兵器を取得し近代化を図ろうとするものであった。
新設
- 2個野戦重砲兵旅団司令部
- 2個野戦重砲兵連隊
- 1個騎砲兵大隊
- 2個飛行大隊
第二次軍備整理
1923年3月、山梨陸相は更に「大正十二年軍備整備要領」を制定し2度目の整理を実施した。
脚注
- 『近代戦争概史 上巻』陸戦学会 P286~286
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