岡部正綱
岡部 正綱(おかべ まさつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、武田氏、徳川氏の家臣。岡部久綱の子、岸和田藩岡部氏初代・岡部長盛の父。次郎右衛門尉。
凡例 岡部 正綱 | |
|---|---|
| 時代 | 戦国時代・安土桃山時代 |
| 生誕 | 天文11年(1542年) |
| 死没 | 天正11年12月8日(1584年1月20日) |
| 別名 | 官途名:次郎右衛門尉 |
| 戒名 | 吸江院殿好雪道龐大居士 |
| 墓所 |
金剛山宝泰寺(静岡県静岡市葵区) 祝融山萬松院(静岡県藤枝市岡部町) |
| 主君 | 今川義元→氏真→武田信玄→勝頼→徳川家康 |
| 氏族 | 岡部氏 (藤原南家工藤氏) |
| 父母 | 父:岡部久綱 |
| 兄弟 | 正綱、長秋、長教[1]、伊丹康直室 |
| 妻 | 三浦範時娘 |
| 子 | 康綱?、長盛、昌綱、朝比奈宗利(信置の三男)室 |
経歴
今川氏の家臣時代
『武徳編年集成』には、少年時代の正綱は人質として駿府に連行された徳川家康と仲良くなり、岡部家は日常生活面で助力するなど家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていたことが記されているが、江戸期の資料であり、これらは空想の域をでない。
今川家の譜代家臣として、弘治3年(1557年)に初陣、兜首2つを獲って名を馳せた。永禄11年(1568年)12月より武田信玄が今川領国への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、重臣の多くが武田方に寝返る中で今川方の立場を堅持して弟・岡部治部右衛門(長秋?)と抵抗し、翌年4月に信玄が後北条氏に攻められ駿河から撤退した後に駿府今川館を占拠した。同年12月に再び武田軍が駿河に侵攻した際にも頑強に抵抗したが、その武勇を高く評価され、臨済寺の鉄山宗純を介して開城し、以後武田氏の家臣として仕えた[2]。
武田氏の家臣時代
武田氏従属後は武田氏の駿河侵攻に貢献し、元亀元年(1570年)正月の駿河花沢城攻めに参戦した。その後の同3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いや翌元亀4年2月の岩村城の戦いにも馬場信春の先陣に属して参戦し、活躍した。天正2年(1574年)の武田勝頼により高天神城攻めにも参陣し、弟・治部右衛門が戦死している。
武田氏傘下の正綱の知行は定納高968貫文余であり、それに対して70人の軍役負担が求められた。また正綱は水軍も有して武田水軍の一翼も担っており、同4年(1576年)8月23日付で武田氏より正綱が所有する清水湊の船14艘の役銭を免除されている[2]。
天正9年(1581年)に高天神城が徳川家の侵攻で陥落し(高天神城の戦い)、一門で同城城代の岡部元信らが討ち死に[注釈 1]した。武田氏の退潮が著しい中で翌年(1582年)2月の織田・徳川軍による武田攻めが開始される(甲州征伐)と、穴山信君と共に徳川家康に内通した。3月に武田氏が滅亡すると徳川家康の家臣となった。
脚注
注釈
- 武田氏は包囲されていた高天神城に効果的な援軍を送れず、見殺しにする形となった。