崔劼

崔 劼(さい かつ、生没年不詳)は、北魏末から北斉にかけての官僚は彦玄[1][2][3]本貫清河郡[1][2][4]

経歴

北魏の太保崔光の子として生まれた。北魏の末年、開府行参軍から尚書儀曹郎・秘書丞を経て、起居注を修撰し、中書侍郎となった。東魏興和3年(541年)、通直散騎常侍を兼ね、への使者に立った。天保元年(550年)、北斉が建国されると、禅譲発議の功績により、給事黄門侍郎に任ぜられ、国子祭酒を加えられ、内省に宿直し、機密をつかさどった。清廉謹直な態度で文宣帝に重用された。南青州刺史に任ぜられて、治績を挙げた。皇建年間、秘書監・斉州大中正となり、鴻臚卿に転じた。并省度支尚書となり、京省度支尚書に転じた。まもなく五兵尚書に転じ、監国史をつとめた。河清4年(565年)、武成帝後主に帝位を譲ろうとしたとき、崔劼は意にさからって諫めたため、南兗州刺史として出された。天統元年(同年)、後主が立つと召還され、再び度支尚書・儀同三司となり、文登県を食邑とした。まもなく中書令に任ぜられ、開府儀同三司の位を加えられ、待詔文林館となり、新書の監修をつとめた。66歳で病没した。斉州刺史・尚書右僕射の位を追贈され、を文貞といった[5][2][6]

子に崔拱・崔撝があった。和士開が専権を握ったとき、ふたりはそろって外任として出されたが、崔劼はふたりを呼び戻そうとしなかった。崔拱は天統年間に任城王高湝の下で丞相諮議参軍・管記室をつとめた。崔撝は揚州録事参軍となった[7][8][9]

弟の崔廓之は、臨水県令から琅邪王高儼の下で大司馬西閤祭酒をつとめ、領軍功曹参軍に転じた。武平年間に死去した[7][8][9]

脚注

  1. 氣賀澤 2021, p. 535.
  2. 北斉書 1972, p. 558.
  3. 北史 1974, p. 1623.
  4. 北史 1974, p. 1615.
  5. 氣賀澤 2021, pp. 535–536.
  6. 北史 1974, pp. 1623–1624.
  7. 氣賀澤 2021, p. 536.
  8. 北斉書 1972, pp. 558–559.
  9. 北史 1974, p. 1624.

伝記資料

参考文献

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
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