崔昂

崔 昂(さい こう、508年 - 565年)は、中国北魏末から北斉にかけての官僚政治家は懐遠[1][2][3][4]本貫博陵郡安平県[1][2][5][4]

経歴

崔孝暐の子として生まれた[3]。7歳のときに父を失い、伯父の崔孝芬に養育されて、「吾が家の千里の駒なり」と評された[1][2][3]。初め元天穆に召されて参軍となった。次いで伏波将軍の号を加えられ、給事中に任じられた。後に中堅将軍の号を加えられ、奉車都尉に転じた。さらに定州刺史高琛の属官をつとめた[4]天平2年(535年)、高澄に召し出されて記室参軍となり、腹心の任を委ねられた[1][2][6]

高澄が輔政の任につくと、崔昂はその下で開府長史となった。この頃、東魏の勲臣の兵客には放埒で不法なふるまいに及ぶ者が多く、特に孫騰司馬子如の一門には甚だしいものがあった。崔昂は高澄の密旨を受けて、不法行為に及ぶ者たちを逮捕したので、都下の風紀は粛然とした。崔昂は尚書左丞に転じ、度支尚書を兼ねた[7][2][8]

天保元年(550年)、北斉が建国されると、崔昂は散騎常侍に転じ、太府卿・大司農卿を兼ねた。横市の濫費314条を奏上して聞き入れられた。また邢卲とともに国初の礼を定め、華陽県男に封じられた。さらに律令の制定を命じられて、薛琡ら43人とともに領軍府で協議して定めた。廷尉卿に転じ、不正な蓄財に対して厳しく処断した[9][10][11]

天保10年(559年)、崔昂は尚書右僕射を兼ね、数日後に正式に右僕射となった。文宣帝が死去すると、僕射の任を解かれ、儀同三司・光禄勲の位を受けた。皇建元年(560年)、太常卿に転じた。河清元年(562年)、御史中丞を兼ねた。従甥の李公統が高帰彦の事件に連座して処刑されると、崔昂は官爵を剥奪された。河清3年(564年)、五兵尚書として復帰し、祠部尚書に転じた[12][10][13]天統元年(565年)6月29日、病が嵩じての遵明里の家で死去した。享年は58。趙州刺史の位を追贈された[14]

家庭

夫人

  • 盧修娥
  • 鄭仲華

  • 崔謀(長男、字は君讃)
  • 崔恪(次男、字は君和)
  • 崔液(三男、字は君洽、後嗣)
  • 崔天師(四男)
  • 崔人師(五男)[14]

  • 崔氏(長女、鄭思仁の妻)
  • 崔氏(次女、李孝貞の妻)
  • 崔徳儀(三女、盧公順の妻)[14]

脚注

  1. 氣賀澤 2021, p. 390.
  2. 北斉書 1972, p. 410.
  3. 北史 1974, p. 1179.
  4. 趙 2008, p. 433.
  5. 北史 1974, p. 1159.
  6. 北史 1974, pp. 1179–1180.
  7. 氣賀澤 2021, pp. 390–391.
  8. 北史 1974, pp. 1180–1181.
  9. 氣賀澤 2021, pp. 391–392.
  10. 北斉書 1972, p. 411.
  11. 北史 1974, p. 1181.
  12. 氣賀澤 2021, pp. 392–393.
  13. 北史 1974, pp. 1181–1182.
  14. 趙 2008, p. 434.

伝記資料

  • 北斉書』巻30 列伝第22
  • 北史』巻32 列伝第20
  • 斉故祠部尚書趙州刺史崔公墓誌之銘(崔昂墓誌)

参考文献

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
  • 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0。
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