崔烈
崔 烈(さい れつ、? - 192年6月28日)は、中国後漢末期の政治家・軍人。字は威考[1]。父は崔盤[2]。子は崔鈞・崔州平[3]。冀州博陵郡安平県(現在の河北省衡水市安平県)の人[4]。
| 崔烈 | |
|---|---|
| 後漢 司徒 | |
| 出生 |
生年不詳 冀州博陵郡安平県 |
| 死去 |
初平3年6月1日(192年6月28日) 長安 |
| 拼音 | Cuī Liè |
| 字 | 威考 |
| 主君 | 霊帝→少帝→献帝 |
『後漢書』・『三国志』に記述がある。司徒・太尉・城門校尉。「漢故博陵太守孔府君碑」の碑陰に、「故吏、司徒掾」として名があることから、博陵郡の役人と司徒掾を経験していると推測される。
生涯
若いころから名高く、要職を歴任していた。
185年、霊帝の御代に売官制が行われた時、大金で司徒の官位を買い、自らの名声を失墜させた。また、子の崔均にも批判されるようになった。また、この時の崔均の発言から「銅臭」(銅銭の臭いが酷い金権政治)という成語が生まれた。以後も太尉など要職を務めた(なお崔烈の後任として、同じく大金を積んで187年に太尉となった曹嵩は、曹操の父である)。
西において韓遂・王国らが異民族と結んで反乱を起こすと、その対策として涼州を放棄する案を提案し、傅燮に激しく批判された。
霊帝没後、十常侍による何進暗殺と、袁紹らによる宦官誅殺事件により後漢朝が混乱すると、段珪が連れ去った霊帝の子の少帝と陳留王(後の献帝)を保護した。しかし、その後の董卓の専横の前には無力であり、関東に逃れた袁紹の挙兵に子の崔均が賛同したため、投獄されている。
董卓が王允・呂布らに暗殺された後、董卓の残党が蜂起すると城門校尉として長安を守備したものの、李傕らが長安を占拠すると、王允ら他の多くの官人と共に殺害された。
小説『三国志演義』では、架空の弟である崔毅の兄として名前だけ登場する。のちに城門校尉として登場し、董卓の仇討にきた李傕・郭汜らの放縦により国難に殉じて戦死した。
脚注
- 『孔彪碑』
- 『新唐書、宰相世系·崔氏』:盤生烈,後漢太尉、城門校尉。
- 『三国志』蜀書 諸葛亮伝注『崔氏譜』に「州平は太尉烈の子、均の弟」とある。『新唐書』宰相世系二下はまた「鈞、字は州平」とし、これに基づけば崔烈の子は崔均と崔鈞(州平)となる。しかし『三国志集解』諸葛亮伝はこれを誤りとし、崔鈞の字は元平で、彼が崔州平の兄と述べる。
- 『後漢書』では博陵郡安平県の人と記されている。
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