庚申信仰

現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教神道修験道呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰(民間信仰)や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。

庚申信仰は青面金剛を本尊とし、このような掛軸画も多数作られた。この画では中央に青面金剛を描き、上に日月、左右に猿、下に鶏を配している。

庚申と三尸説

中国道教の教説である三尸説とその行事の守庚申が日本に伝来して、習合と複合して広まった[1]庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干十二支の60通りある組み合わせのうちの一つである。陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を60で割り切れる年)を始め、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。

この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く平安時代に移入された[2]

歴史

フォトグラメトリ(SfM/MVS)で作成した、石上峠(静岡県静岡市清水区西里)にある庚申塔明和八年 (1771年) 造立)の3Dモデル

庚申経(老子守庚申求長生経)が三尸説や守庚申を記述していて、平安時代に伝わり、庚申信仰の原点となったと推定されている[3]。これは、天台僧の成尋が唐留学時に覚書として集め、園城寺三井寺)に唐から送り納めた資料だとされている[2]

遣唐使に伴いに留学したが、上陸して唐朝に短期留学の請益僧だと制限強化で天台山行きを拒否されて遣唐使一行から離脱し、中国内を山野と庶民間と寺を独自に旅して修行して学んだ円仁が、『入唐求法巡礼行記838年承和5年)11月26日の条に〈夜、人は咸く睡らず。本国の正月、庚申の夜と同じきなり。〉と中国の僧侶貴族だけではない庶民も含めた、冬至の夜に眠らずに過ごす風習を見て日本の正月や庚申の夜のようだと、言及している[4][5]

平安時代の貴族社会では、この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す後に「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」と称された宴をはるのが貴族の習いであった。最も早い記録では清和天皇の代に貞観5年(863年)11月1日の庚申に宮中で宴がもたれ、音楽が奏せられている[6]9世紀末から10世紀の頃には、庚申の御遊は恒例化していた。やがて「庚申御遊」と呼ばれた平安時代末期には、酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなった[7]鎌倉時代から室町時代になると、この風習は上層武士階級へと拡がりを見せるようになった。『吾妻鏡』(鎌倉幕府の記録書)にも守庚申の記事が散見される。また資料としてはやや不適切かとも思われるが、『柏崎物語』によると織田信長を始め、柴田勝家ら重臣20余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたとある[注釈 1]

やがて守庚申は、庚申待と名前を変え15世紀中期頃から、会食談義を行って徹宵するが、いっぽう本尊を礼拝し、仏教的な勤行を行うようになる。その時期は、初見の庚申待板碑が、文明3年(1471年)の造立で、室町時代の文明年間(1469年-1487年)を少し遡る頃と推定される[8]

庚申待が一般に広まったのがいつ頃かは不明だが、愛知県豊田市の金谷庚申三光寺の蔵している庚申縁起では寛仁4年(1010年)で、そのころに、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が天台宗の僧侶の手で作られたとみられる。内容は、四天王寺庚申堂の由来を語る形式で趣旨と実践の啓蒙書でもあり、その始まりを大宝元年(701年)正月7日に尊記上人への青面金剛からの掲示によるとした。四天王寺庚申堂から口授で各地へ伝承され、庚申信仰は仏教と結びついて広まったが、特定神仏を選ばず本尊含めて多くの神仏と習合した[9]。仏教と結びついた信仰では、諸仏本尊視され始めるが各地庚申堂で本尊は違い、行いを共にする「庚申講」が組織された。そして、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した[10]

また「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申(供養)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。 庚申信仰では、もともと猿が庚申の使いとされ、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿をもってその神体とした庚申堂もあったが、やがて青面金剛が本尊とされ、三猿は脇に置かれるようになった[10]。庚申塔も三猿だけだったが同様に脇に添え描かれた[11]

庚申の権能は各地で違うが、多岐にわたり、豊作、招福、厄除け、家族、和合・良縁、建築、健康長寿、病除け、土地・道、諸芸、の神とされ現生利益が求められ祈られた[12]。他に、男女同床せぬとか、結婚を禁ずるとか、この日結ばれてできた子供に盗人の性格があると恐れられたりする因習もあった[13]

仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。 このころには宮中でも、延宝4年(1676年)医師黒川道祐の『日次紀事』正月巻に、宮中の庚申の夜ごとに庚申の本尊として青面金剛に酒や菓子を供え、殿中の男女が飲食と御遊するという形式へと変化したとある[14]

しかし、江戸時代後期に衰えを見せ、庚申塔は寛政8年(1796年)には近畿地方の庚申信仰発祥の北摂などでも、すでに珍しいものとなり(『摂津名所図会』)[15]、山形県寒河江市所在のものが現存最古である[16]明治時代初めに路傍の石仏祠石碑や基礎となった修験道が禁止され、以降には生活の変化とともに急速にその信仰が失われた [17]

この夜慎ましくして眠らずに過ごすという習慣は、一部の地区で受け継がれている。また地域によっては、人々が相寄って催す講も続けられている。それらは互助機関として機能したり、さらには村の常会として利用されたりすることもある。臨時のイベントとして行われることもある[18]

青面金剛、猿田彦神

住宅街の庚申堂(西新宿の淀橋庚申堂)。青面金剛と三猿の石刻像が祀られている。

庚申信仰では青面金剛と呼ばれる独特の神体を本尊とするが、これは南方熊楠によればインドのヴィシュヌ神が転化したものではないかという[19][20]石田英一郎によれば青面金剛にはまた馬頭観音(インドのハヤグリーヴァ)との関連性も見られるという[21]

庚申信仰はまた神道の猿田彦神とも結びついているが、これは「猿」の字が「庚申」の「」に通じたことと、猿田彦が塞の神とも同一視され、これを「幸神」と書いて「こうしん」とも読み得たことが原因になっているという[22]

庚申信仰に関連するおもな寺社

四日市市松原町の三岐鉄道の敷地内に庚申社という祠がある。祠の中には御神体が安置されている。1959年9月、地元の人々の篤志によって社殿が改築された[23]

脚注

注釈

  1. 「柏崎物語」は元本が軍記ものの「総見記」とされ、その再編集本であり資料としては内容の信頼性は低い。とくにここで記述されている事実関係には信長は史実では下戸であり矛盾点が多く疑問がある。

出典

  1. 窪 1961, 1章「三尸説の起源と成立」.
  2. 永井義憲「庚申経伝来考 - 成尋阿闍梨の舶送か」(小花波平六編『庚申信仰<民衆宗教史叢書17>』雄山閣、2003年)初出は『日本仏教』16号、1963年
  3. 飯田 1989, pp. 59–64.
  4. 飯田 1989, pp. 185–187.
  5. 塩入良道『入唐求法巡礼行紀1』(平凡社、1970年 2月28日 初版発行)p70
  6. 飯田 1989, p. 192.
  7. 飯田 1989, p. 207.
  8. 小花波平六編『庚申信仰<民衆宗教史叢書17>』(雄山閣、 2003年)
  9. 飯田 1989, p. 65-70.
  10. 飯田 1989, pp. 170–176.
  11. 飯田 1989, p. 174.
  12. 窪 1961, 第3章8節「庚申神の属性と利益」引用は、堀一郎『農村信仰』
  13. 飯田 1989, pp. 17–19.
  14. 窪德忠『庚申信仰』(山川出版社、1956年)p.143
  15. 飯田 1989, pp. 35–36.
  16. 窪 1963, p. 48.
  17. 飯田 1989, pp. 32、218-219.
  18. ゲストハウス「犀の角」イベント庚申待2018年05月28日19:002021年4月23日閲覧
  19. 南方熊楠 『十二支考』「猴に関する伝説」青空文庫
  20. 中村禎里『日本動物民俗誌』(海鳴社、1987年) 9-14ページ
  21. 石田英一郎『新版河童駒引考』(東京大学出版会、1966年)参照は中村による。
  22. 飯田道夫『猿 よもやま話』(評言社、1973年)参照は中村による。
  23. 『富洲原小学校百周年記念誌』(1976年)P101
  24. 中村 2010, pp. 228–229(『西宮記』平安時代の有職書)に四天王寺庚申堂記載。
  25. 中村 2010, pp. 229.
  26. 公式
  27. 京都市
  28. 中村 2010, pp. 198.
  29. 中村 2010, pp. 231.
  30. 『奈良市歴史的風致維持向上計画』第2章「自然・神仏を崇拝する」-《(3)奈良町の庚申信仰》p.104-105
  31. 崇敬会公式
  32. 『葛飾区史』第2章「葛飾の成り立ち(古代~近世)」第3節「近世の葛飾葛飾の名所と行楽地:柴又帝釈天」2021年4月13日閲覧
  33. 紹介資料
  34. 公式

参考文献

  • 飯田道夫『庚申信仰 - 庶民宗教の実像』人文書院、1989年。ISBN 978-4409540251。
  • 中村光行『奈良の鬼たち』京阪奈情報教育出版、2010年。ISBN 978-4-87806-503-3。
  • 窪徳忠『庚申信仰の研究 : 日中宗教文化交渉史』日本学術振興会、1961年。
  • 窪徳忠『庚申信仰の研究 : 年譜篇』帝国書院、1963年。

関連項目

外部リンク

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