徐光範
徐 光範(じょ こうはん、서광범〈ソ・グァンボム〉、1859年11月8日 - 1897年8月13日)は、朝鮮王朝末期の政治家である。本貫は大邱徐氏[1]。字は敍九、雅号は緯山、諡号は翼獻公。
| 徐光範 | |
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| 各種表記 | |
| ハングル: | 서광범 |
| 漢字: | 徐光範 |
| 発音: | ソ・グァンボム |
| ローマ字: | Soh Kwang-pom |
人物

徐光範
徐光範は朝鮮の両班の家系に生まれ、政治的地位を急速に上昇させた。金玉均や朴泳孝らと開化派を形成し、1882年に修信使随員として訪日した。1884年の甲申政変に参加したが挫折し、甥の徐載弼(Philip Jaisohn)と共に政治難民の亡命者とし渡米して[2]、1886年にアメリカ合衆国市民権を取得した。1895年の甲午改革に際して高宗に呼び戻されて帰国し、枢密院議員となり、法部(外務省に相当)大臣を経て、翌年に学部(旧来の礼曹)大臣に任じた。また『独立新聞』を創刊して独立協会運動を支えた。
改革に失敗すると、使節としてアメリカに送り返され、朝鮮公使館の公使を務めた[2]。彼は1897年8月13日にワシントンD.C.で、自転車に乗った後で倒れ、数日間の病気で亡くなった。彼の遺体は火葬された[2]。
脚注
- “서광범(徐光範)”. 韓国民族文化大百科事典. 2022年8月18日閲覧。
- “Pom Kwang Soh Dead”. The Washington Post. (1897年8月14日)
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