御峰城
御峰城(おみねじょう)は、富山県南砺市土山にあった日本の城。土山城(どやまじょう)ともいう。城跡としては史跡未指定だが[1]、市指定史跡「土山御坊跡」と場所が重なる[2]。とやま城郭カードNo.49[3][4]。
![]() logo (富山県) | |
|---|---|
![]() 御峰城本丸跡 | |
| 別名 | 御峰城、土山城、土山砦、土山御坊 |
| 城郭構造 | 山城 |
| 築城主 | 蓮誓、もしくは向田孫右衛門尉? |
| 築城年 | 文明年間(1469年 - 1486年)以降 |
| 主な改修者 | 佐々成政 |
| 主な城主 | 一向一揆勢、神保氏、佐々氏 |
| 廃城年 | 天正13年(1585年)頃 |
| 遺構 | 曲輪、土塁、堀切、枡形虎口 |
| 指定文化財 |
未指定 (※市史跡「土山御坊跡」に近接) |
| 再建造物 | 庭園 |
| 位置 | 北緯36度34分44秒 東経136度48分18秒 |
| 地図 |
![]() 御峰城 |
規模
富山県と石川県の県境にほど近い御峰山(標高261メートル)の頂上部から麓の平坦地にかけて築かれた山城。四方を谷に囲まれており、曲輪、土塁、北には大きな堀切が残り、西には「ゴモン」という地名と枡形虎口、堀切が確認されている。この辺りにはそれ以前に一向一揆の拠点「土山御坊」があった時期があり、両者の遺構は重複している。
御坊跡とされる平坦地は東西30メートル、南北25メートル程度であるが、その南には付近を治め、本願寺の支援者でもあった土豪、杉浦万兵衛の屋敷と伝わる「万兵衛屋敷」と呼ばれる場所があり、これは東西約70メートル、南北約60メートルの方形で、周囲には空堀を備えていた。また、当時の本願寺連枝系寺院特有の施設の名称である「オチン(御亭)」と呼ばれる場所もある[5]。
歴史
戦国時代
詳細は「越中の戦国時代」を参照
- 文明年間初頭、加賀二俣本泉寺住持であった如乗(本願寺6世巧如の次男)の妻、勝如尼(本願寺5世綽如の3男周覚の娘)によって創建され、本願寺8世蓮如の四男である蓮誓が入った。なお、蓮如が杉浦万兵衛[6]宅に寄寓していた時に建てられたという説もある。土山御坊は越中瑞泉寺や越中善徳寺と共に越中一向一揆の最重要拠点として発展していく。
- 文明13年(1481年)2月、礪波郡に勢力を誇った越中福光城主石黒光義が同族の加賀守護富樫政親の要請を受けて、医王山惣海寺と組んで瑞泉寺らと戦うが敗退(田屋川原の戦い)。これを契機に礪波郡は徐々に一向一揆衆の支配下に組み込まれていく。この時土山御坊は直接的な参戦はしていないようであるが、加賀の門徒に働きかけて背後から惣海寺、福光城を攻撃させたのではないかと考えられている。
- 明応3年(1494年)、蓮誓によって礪波郡蟹谷荘高木場御坊(現・南砺市高窪)に移転。
- 永正・大永年間(1504年 - 1527年)、「土山ノ古城」に向田孫右衛門尉が家臣の稗田甚助と共に拠り、向田孫右衛門尉は一向宗に帰依したという。
- 永禄・天正年間(1558年 - 1591年)、神保氏の家臣、上田左近なる侍大将が拠って敵を防いだという。
- 天正12年(1584年)前後、佐々成政が前田利家に対する防衛拠点の一つとして御峰城を築き、稗田善助、青木孫右衛門を入れてこれを守らせた。
現在
当時あったといわれる庭園が復元されている。元々は蓮如が作ったとされているが、確証は無い。本泉寺にある庭園と同時期に作られたと言われている。碑と案内板が建てられている。
脚注
- 「南砺市の文化財」南砺市公式HP
- 「土山御坊跡(南砺市文化芸術アーカイブス)」南砺市公式HP
- 「とやま城郭カードが完成しました!」砺波市公式HP
- 「とやま城郭カード一覧」砺波市公式HP
- 「連枝」とは一族の中でも法主の子と兄弟にのみ与えられる最上の家格のことである(御連枝)。本願寺における「御亭」は身内の法事や儀式、内々の会談等に使用された施設で、また迎賓館としての役割も有していた。
- 以降、杉浦氏は土山御坊の有力な坊官として活躍する。越前一向一揆など緒戦で活躍した法橋にして「越前国大野郡司」、杉浦玄任はこの一族の出身という。
参考文献
村田一也、土山御坊と杉浦万兵衛屋敷に関する考察2、石川工業高等専門学校、2017年
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.


