悦仁親王
悦仁親王(としひとしんのう、文化13年1月28日(1816年2月25日) - 文政4年2月11日(1821年3月14日))は、江戸時代の皇族。光格天皇の第七皇子。母は欣子内親王であり、後桃園天皇の女系の孫にあたる。同母兄に温仁親王、異母兄に仁孝天皇がいる。
| 悦仁親王 | |
|---|---|
| 続柄 | 光格天皇第七皇子 |
| 全名 | 悦仁 |
| 身位 | 親王 |
| 出生 |
文化13年1月28日(1816年2月25日)[1] |
| 死去 |
文政4年2月11日(1821年3月14日)[1] |
| 父親 | 光格天皇 |
| 母親 | 中宮欣子内親王 |
生涯
閑院宮家の光格天皇と中御門天皇の唯一の玄孫欣子内親王の間の第2皇子として文化13年(1816年)に生まれた。もともと皇太子であった兄の温仁親王が夭逝したこともあり、温仁親王を除き中御門天皇の血を引く唯一の男子だった。文政4年(1821年)2月9日に親王宣下が行われたが、2日後の2月11日に夭逝した。これにより、中御門天皇系の皇統の断絶が確定した[2]。
当時、中御門天皇の曾孫である後桃園天皇が皇子を残さず崩御したことにより、中御門天皇系の男系男子が廃絶してしまった。それにより、新帝を誰にするかの会議が開かれた。その会議では「男系男子は守りつつ、中御門天皇の血も引かせる」ということが重視され、新帝と欣子内親王を結婚させるという想定がなされた。そこで、候補者の中で未婚である中御門天皇の弟の閑院宮直仁親王の孫、師仁親王を光格天皇として践祚させ、光格天皇と後桃園天皇の皇女である欣子内親王を結婚させ、その子を皇太子とするという決議が決まった。しかし第1子である温仁親王は2年に満たず、第2子の悦仁親王は5年で夭逝したため皇位を継ぐことはなかった。その後、皇位は異母兄の恵仁親王(のちの仁孝天皇)が継いだ[3]。
| 114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- 『本朝皇胤紹運録』(『群書類従』第5輯(群書類従刊行会、1954年)p.126)
- “光格天皇 - 刀剣ワールド”. 刀剣ワールド. 2023年2月24日閲覧。
- 「光格天皇実録」宮内省 編、ゆまに書房、2006年
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