恵慈
人物
三論宗、成実宗に通じ、推古天皇3年(595年)に朝鮮半島の高句麗から渡来して、厩戸皇子の仏教の師となり、飛鳥時代の日本仏教界で活躍した。仏教を日本に広め、推古天皇4年(596年)、法興寺(蘇我善徳が寺司、現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、百済の僧慧聡と住し、ともに三宝の棟梁と称された[1]。
『伊予国風土記』には、伊予国の温泉(道後温泉)に聖徳太子、葛城烏那羅とともにでかけ、その妙験をたたえたと記されている[1]。
推古天皇23年(615年)、聖徳太子が著した仏教の経典である(『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』)の注釈書『三経義疏』を携えて高句麗へ帰国し、『三経義疏』を高句麗に伝え、広める[1]。
推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に聖徳太子が没したという訃報を聞いて大いに悲しみ、「高麗僧恵慈…誓願して曰く、日本国に於て聖人(聖徳太子)有り、…玄聖の徳を以て日本の国に生まる」といい[2]、来年の命日に死ぬと予言し、その誓いどおりに入滅したしたので、高句麗人は恵慈もまた聖なりと評したという[1]。
韓国における恵慈
韓国の歴史教科書は「高句麗もたくさんの文化を日本に伝えてあげた。高句麗の僧侶彗慈(恵慈)は聖徳太子の師であり、曇徴は紙、墨、硯を作る技術を教えてあげ、法隆寺金堂壁画も彼の作品として知られている」と記述している[3]。
脚注
- 『慧慈』 - コトバンク
- 蔣立峰・厳紹璗・張雅軍・丁莉 (2010年). “序章”. 日中歴史共同研究報告書 (日中歴史共同研究): p. 26-27
- “歴史の共同研究 聞く耳持たぬ中韓ではなく米台と始めるべき”. NEWSポストセブン. (2013年7月28日). オリジナルの2015年2月9日時点におけるアーカイブ。
参考文献
- 「アジア人物史 2」集英社、2023年
関連項目
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.